女川町に入ってくると海からモクモクと煙のようなものが上がっています。
海上に燃やすようなものもありませんし、これが海霧というものなのでしょうか。紀行文や小説なんかではよく目にしてきた単語ですが、実感するような形で見るのはこれが初めてです。
● スタート地点から:650km
「道の駅 おながわ」でお昼ご飯にします。ギリギリお昼前ですし、落ち着いて食べられると良いのですが…
赤いレンガが敷き詰められた通りがまっすぐに続く、かなり広い道の駅です。「シーパルピア女川」「ハマテラス」など複数の施設をまとめて道の駅として登録しているそうで、広い敷地の中に色々とあって目移りしてしまいます。
ですが、三陸へ来ているのなら三陸の海の幸をいただきたいもの。メインの道路に一番近いところにある「お魚いちば おかせい 女川本店」のレストランコーナーへと入ってみました。
あさかぜと同じように早めのお昼ご飯を食べようとした人が大勢いて、元々広くない店内はほとんどが埋まっていました。片隅の2人用テーブルになんとか席を見つけます。
注文したのは「七福丼」(2,200円)。ホタテ、エビ、シャコ、ウニといった三陸の海の幸が盛りだくさん!生きているときの姿から今までなんとなくシャコを敬遠してきましたが、実際に食べてみると案外イケるものです。まぁ好きというほどではありませんが…
ちなみにシャコの名前の由来は「捕まえたときに猛烈にかんしゃくを起こすから」だそうで。
一緒についてくる味噌汁の具も日替わり。この日は定番のワカメ・ネギにふのりが入っていました。
かなり混んできたので、食べ終わるなりさっさと退散してきました。せっかくいい天気なので震災遺構の勉強ついでに散策して回ります。
湾の奥まったところにある女川港は、風が静かで穏やかな漁港です。3方を山に囲まれ、しかも湾の出口が少しすぼまった地形になった天然の良港。むしろ風がなくて日が照っているので暑くて仕方がありません…
漁港では水揚げが行われているのか、おこぼれを狙いに海鳥が大集結していました。
そんな穏やかな女川港から振り返ると、横倒しになったコンクリート製の構造物が目に飛び込んできます。女川町の震災遺構「旧女川交番」です。
地震で押し寄せた津波に飲み込まれ、それが沖に戻っていく「引き波」の時に基礎の杭ごと引っこ抜かれて横倒しになったと推測されています。災害に強いとされてきた鉄筋コンクリート製の建物が津波で横倒しになったのは、日本では初めてのことだったそう。
交番の周囲には歩道が整備され、ぐるりと1周してありのままを観察できるようになっています。その壁には津波にのみ込まれてから復興にこぎ着けるまでの過程が写真とともに紹介されており、発生直後の写真には言葉が出ませんでした。
押し寄せた津波は女川町の市街地を突き進み、海抜30m以上のエリアまで被害をもたらしました。津波で亡くなった方は827人にも上り、その数は当時の人口の実に8%。いかに甚大な被害であったかが伝わってきます。
交番だった建物には津波に巻き込まれてきたがれきなどが引っかかっていますが、鉄骨や鉄板が元からそうでしたと言わんばかりに曲がったりひしゃげていることに唖然としてしまいました。自然の力の恐ろしさです。
床面側に回ると、杭ごと倒れたことが一目でわかります。鉄筋コンクリートの箱がまるで模型のジオラマに置かれているかのように横倒しになっている光景は、にわかに信じたくないものです。
再びシーパルピアの中を歩いてきました。通りの先に見えている穏やかな海が、あのとき多くの命や建物をこの世から消し去ったものとはとても想像できません。
ウミネコが羽ばたく姿をイメージしたという女川駅。被災するまでは海岸ギリギリのところにありましたが、復興にあたって200mほど内陸側に移動しています。
施設の案内図に温浴施設「女川温泉ゆぽっぽ」というものが駅に併設されているとのことで来てみましたが、この日は休業中。去年(2021年)5月1日の震度5強を記録した地震で被災してしまったそうで、訪れた翌月の8月21日から再開されました。
昨晩はシャワーだけだったから願わくば温泉に、と思っていたので少し残念です…
震災から4年後の2015年から再開された女川駅。現在は1面1線のホームだけが設置されています。列車の運行本数は1時間~1時間半に1本ほど、ほぼ全ての列車が小牛田まで運転(一部は石巻で乗り換え)され、朝一番の列車だけが仙台まで直通します。
震災の津波ではホームに停車中だったディーゼルカー3両も津波に流され、うち1両は山の中腹まで押し上げられて大破しました。1両35トン以上もある鉄道車両をたやすく斜面に押し上げてしまう津波の力は想像を絶します。
ドライブを再開します。
海岸線ギリギリまで山が迫るリアス海岸なので、隣が海なのにカーブと坂道が連続する、走り屋にはたまらなそうな道が続いています。
道路にはしばしば津波で浸水したエリアを示す看板が立っており、いかに高いところまで津波が襲ってきたかがわかるようになっていました。
湾が深く入り込むリアス海岸、特にV字形の湾では、狭くなった部分にエネルギーが集中し津波が高くなるのだそうです。同様に海に戻っていく引き波も強力なものとなり、東日本大震災における行方不明者の85%はリアス海岸のエリアに集中していたとのこと。
雄勝湾というかなり深い入り江に入ってきました。湾の反対側に道の駅があるようなのでちょっと寄り道してみます。
● スタート地点から:668km
「道の駅 硯上の里 おがつ」に到着しました。硯上がさっぱり読めませんでしたが、「けんじょう」と読むそうです。昨年2021年4月にオープンしたばかりの真新しい道の駅ですが、交通アクセスとしてはかなり大変な場所にありますね…
このあたりは非常に硬い堆積岩である雄勝石の産地です。硯(すずり)という文字が入る通り、頑丈で長持ちする雄勝石は硯に加工され、雄勝地区の伝統工芸品にもなっています。その歴史は実に600年、室町時代にさかのぼるものだとか!
伝統的な硯だけでなく箸置きやペーパーウエイト、中にはマウスパッドまで用意されており、手の出しやすい価格のものもたくさんありました。オンラインショップでも購入できます。
奥が深く、しかも最奥部では90度に折れ曲がる形になっている雄勝湾は穏やかで最適な港なのでしょう。今日はあいにくの天気で見通しが利きませんが、公式ウェブサイトの写真を見ると晴れた日には素晴らしい景色が見られそうです。
波の音さえほとんど聞こえないぐらい穏やかな雄勝湾も、震災では例によって大きな津波に襲われました。
写真の左側には雄勝病院という3階建ての市立病院がありました。身動きの取れない高齢の患者40人が入院しており、その患者全員と、病院にとどまった職員24人が亡くなるという悲惨極まりない大惨事に。3階建ての病院は屋上まで津波に襲われ、職員の方は多くがそこから流されたのだそう。
一命を取り留めたは職員の方4人は「患者や同僚を死なせてしまった」という罪の意識に長い間さいなまれているという、想像するだけで胸が締め付けられる話です…
当時も含めていかに自分がのうのうと生きてきたことか…
荒れ狂う姿を想像できない、穏やかな雄勝湾を背景にクルマの写真を撮って、さらに先へ進みましょう。
>>つづく<<