半島の根元を突っ切るように15分ほど走り、以前から気になっていた震災遺構大川小学校に到着します。
● スタート地点から:675km
震災遺構となっている、石巻市立大川小学校。敷地へ入るなり、あまりの衝撃に立ち尽くしてしまいました。
写真ではあまり伝わらないかもしれませんが、言葉では言い表せない圧倒的な「無」がたたみかけてきます。今でもあって当然なはずの日常が、ない。
鉄筋コンクリートの壁がなくなって教室の中まで丸見えになっている1階部分。2階部分に残されている歪んだアルミサッシからも、津波がすさまじい力で押し寄せたことがわかります。
外からは見えませんが、説明文によれば川と陸からぶつかり合った津波が渦を巻き、その威力は2階の教室の床を持ち上げるほどのものだったと。天井には津波の痕跡が黒く残っているそうです。
大川小学校を襲った津波の高さは8.6mにもなりました。
校舎と体育館をつないでいた渡り廊下は、まるで粘土で作られたかのように横倒しになっています。震災前を写した写真ではガラス張りのドームがついていましたが、今は跡形もありません。
校舎の裏側に回ってみると、明かりの灯らない教室がぼっかりと不気味に口を開けています。
子供たちの歓声が響き渡っていたであろう光景を想像させるものは、もはや何もありません。
東日本大震災の津波で、大川小学校では全校108人のうち74人の児童が亡くなり、避難誘導にあたっていた教職員も10人が亡くなりました。他にも小学校に避難していた保護者、近隣住民、スクールバスの運転士も犠牲に…
当時行政が作成していたハザードマップでは、1960年のチリ地震の教訓から大川小学校までは津波は到達しないものと考えられていました。そのため当初は学校にとどまった方が安全だ、その後少し高いところにある「三角地帯」と呼ばれる交差点に避難しようという話になり、そのまま多くの人が到達しない「はず」だった津波にのみ込まれてしまいます。
併設された「大川震災伝承館」には、当時の津波の被害や災害前後の航空写真、そして今も家に帰れていない児童の遺留品などが展示されています。
何にも代え難い大切な子供を失った遺族は宮城県と石巻市に対して訴訟を起こし、2019年10月に総額14億円以上の損害賠償を支払う判決が確定しました。
津波の到達まで50分もあったのだから一刻も早く高台に避難するべきだった、という行政や教員側の過失を認めるものです。教員はハザードマップの信頼性を独自に検証するべきだった、という指摘もありました。
背後の山に目をやると、斜面の途中に浸水したラインを示す看板が立っています。はるか見上げる高さです。判決では唯一の逃げ場と言っていいこの裏山に早い段階で逃げておけば、このような大惨事にならなかったと言及されました。
ただこの山もかなり急な斜面なので、体が小さく体力もない低学年の子たちがスムーズに避難できたか、と問われれば何とも言えませんが…
家庭を持たず、「子供部屋おじさん」などと呼ばれる社会の下層に位置するあさかぜには、大事な大事なお子さんを失った親御さんの気持ちを正確には理解できません。理解できる、などとおこがましいことを言うべきでもないでしょう。
でもこの光景を写真や文章で記録に残すことはできます。同じ惨事を繰り返さないための教訓として、何らかの役に立ってくれればありがたいものです。
呆然としたまま大川小学校をあとにします。この坂を登り切った場所が当初の避難場所として目指していた三角地帯です。
右側に見える北上川を渡る長い橋もやはり津波によって橋の一部が流失し、2016年に流失部分がかけ直されたもの。
>>つづく<<