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海霧が晴れて青空が広々と見えるようになりました。南三陸町からおよそ1時間弱、陸前高田市に到達です。
● スタート地点から:784km
「道の駅 高田松原」に着きました。道の駅にしてはあまりに巨大な建物が現れてびっくりしましたが、これは震災による津波の記憶を後世に伝えていく「いわてTSUNAMIメモリアル」が併設されているからです。
陸前高田市は津波の被害を特に大きく受けた自治体の1つで、市内の広い範囲が浸水し1,700人以上の人命が失われました。
5.5mあった防潮堤を優に超える津波は気仙川河口の気仙大橋をたやすく押し流し、実に8km以上も川をさかのぼっていったとか…
このぐにゃりと曲がった鉄の構造物はその気仙大橋の橋桁だったもの。2.5tもある鉄の塊が300m以上も上流まで押し流されていったのですから、津波の力というのは恐ろしいものです。
橋桁なのですから、おそらく元々はまっすぐだったはず。右側のL字に曲がった部分に注目すると、ろくろをしくじった作りかけの陶器のような形に曲がっているのがありありとわかります。想像を絶する力…
ぐちゃぐちゃに曲がったトヨタのピックアップトラックは廃車体ではなく、2011年当時で現役だった消防車です。津波が到達する寸前まで住民に高台へ避難するように呼びかけていた消防団員が乗っていました。乗車していた消防団員の方は無事だったそうで何よりです。
一方で、津波にのまれて命を落とした消防団員が多くいたのも事実…陸前高田市だけで34人、岩手県全体で見ると90人もの消防団員が殉職しました。
海に近い水門の閉鎖にかかっていたり、避難に手助けが必要な人の手伝いをしている最中に巻き込まれてしまった人が多くいたことが明らかになっています。強い使命感に頭が上がりません。
パネルには数字やグラフなどを用いて、わかりやすく津波の被害が説明されていました。コメントもなく淡々と書き表されているところがまた言葉になりません…
館内には各地で撮影された当時の生々しい映像が放映されています。ニュースなどで繰り返し見てきたものですが、10年以上経った現在に改めて見てみても、轟音と土煙を上げて真っ黒な津波が迫ってくる映像には震え上がります。
映像コーナーの壁には被害を受けたり、身近な人を亡くした人の体験談が掲出されています。東北地方だけでなく日本全国で語り継ぎ、同じような悲しい出来事を可能な限り減らしていかねばなりません。
道路や駅に掲げられていた標識類もそのままの姿で展示されていました。大槌の駅名標なんてまるで紙切れのように折れ曲がっています。バス停は針金細工かと思うほどです。
道路の脇に「津波浸水想定区域」という看板が立っていても、いったいどれほどの人が本当に津波がその場所までやってくると身構えていたのでしょうか。
地域に語り継がれるチリ沖地震は半世紀も前のこと。それより後は東日本大震災が起きるまで、太平洋側ではせいぜい1m程度。そんな環境にあさかぜがいたら、もしかしなくても「なんとかなるでしょ」とタカをくくっていたに違いありませんから。
建物の裏手側には「高田松原津波復興祈念公園」が広がっており、通路を歩いて行くと新たに設置された防潮堤の上に出ることができます。
防潮堤の上は展望台になっており、「海を望む場」という名前がつけられているようです。
そこから広がる光景は、女川、雄勝や南三陸で見てきたのと同じ、穏やかで豊かな海の景色。真っ黒になって命や思い出を奪い去っていったのと同じ海とは思えませんし、想像もつきません。
ここから見える景色を「絶景」というのは不適切かもしれませんが、心を落ち着かせてくれるものではあります。
砂浜には津波で失われてしまった松原に代わり、新たな松が植えられて育成されているようです。松が立ち並ぶ美しい景色を見せてくれるのはいつのことなのでしょう。
無残な姿になっているのはユースホステルだった建物。幸い震災の数ヶ月前から休館になっていて、滞在している人はいなかったため建物だけの被害で済みました。
この建物も震災遺構として保存されることが決まっています。
背後に見える水門も見るからに頑丈な造りになっているのがわかります。5つに分かれた延長211mもある大きな水門で、大津波警報などが発令されると自動で閉鎖する仕様。コンクリートの壁と頑丈な水門で川へ津波が入り込むのを防ぎます。
南三陸町で見た通り、防潮堤はある程度(明治三陸地震が参考値)の津波には耐えられるようになっていますが、東日本大震災クラスのものでは乗り越えてしまいます。
それを理由に「新しい防潮堤なんて不要だ!」という説を唱える人もいますが、津波が居住域に入り込んでくるのを遅らせ、入り込んでも被害を少なくするのが防潮堤の役割です。津波の侵入を遅らせられれば、その分遠く高いところへ避難できる時間が作れるのですから。防潮堤はただ高くするだけでなく、津波が乗り越えても破壊されないような構造が取られています。
気仙川の対岸に見えるのは気仙中学校の跡地で、先ほどの気仙川水門を通って遊歩道で到達することができます。
河口に近く陸前高田市の中でもかなり早い段階で津波に襲われた場所でしたが、生徒は日頃の防災教育のおかげで全員が避難して無事だったそう。
ここからは見えませんが、屋上には津波の到達したラインを示す看板が立っています。その高さは14.2m…校舎3階をまるまる飲み込んで屋上まで到達するもの。
そして陸前高田市を一躍有名にしたのはこの「奇跡の一本松」でしょう。この一帯には植林された松およそ7万本が茂っていた、広い松原でした。しかし津波でほぼ全てがなぎ倒されて松原は壊滅…
その中で唯一1本だけ立ったまま生き残ったのが、後に「奇跡の一本松」と呼ばれるようになったこの木でした。しかし津波の持ち込んだ油類や化学物質が土壌にしみこんだ上、地面そのものが80cmも地盤沈下したことで常に根っこが海水に浸った状態になってしまいます。約半年が経過した2011年10月には根のほぼ全てが腐っていることが確認され、新芽こそ芽吹いたものの木そのものを生き残らせるのは困難と判断されました。
www.city.rikuzentakata.iwate.jp
しかし他の松が無残な状態になってしまった中で、地元の人々に希望を与えた松の木をそのまま伐採してしまうのは惜しい。
そこで幹は樹脂に浸して防腐処理を施してから中に心棒を通して自立できる状態に、枝と葉は型どりしたレプリカを用意して、忠実に姿が再現されました。
そして震災から2年半後の2013年7月、震災復興のモニュメントとして奇跡の一本松はこの場所に戻ってきたのです。
また松の姿を再現するだけでなく、接ぎ木をしたり松ぼっくりに残っていた種を住友林業が育成し、奇跡の一本松の子孫を残すプロジェクトも進められています。2019年9月の復興祈念公園の完成と同時に、先ほど写真に写っていた新しい松原に3本が植樹されたとのこと。
敷地の隅には震災以前に道の駅本館だった「タピック45」の建物も残っています。こちらも震災遺構として保存されており、団体向けのガイドが同伴するときのみ見学が可能になっているとのこと。
気がつけば1時間以上が経過していました。
時刻はまもなく夕方5時、宿泊の予約を入れている「うみねこ温泉 湯らっくす」には夕方6時チェックインということで予約を入れてあります。
カーナビをセットすると…目的地までまだ75kmもあるの!?
まぁ宿舎側も多少の遅れは想定しているはずですが、あまりに悪びれず堂々と遅れていくのもさすがに…急ぎ足でクルマをスタートさせ、陸前高田ICから三陸道を北上します。
山間に入るとまたも海霧。かなり濃く出ています。
しかし海に開けたところに出ると急に霧が収まったりして、なかなか天候に踊らされています。海霧が出ていないエリアはペースを維持していきたいところ。
山田南ICで三陸道を降り、山田町の市街地へ。
内陸寄りにあるIC付近ではまた濃いめの霧が発生していましたが、一般道を海沿いまで出てくるとやはりきれいに霧が晴れます。天気そのものはあまり良くないようですが…
なお空気中のチリなんかが霧になってクルマにまとわりつくせいか、特にリヤガラスが真っ白になっています。家に帰ったらちゃんと洗車しないと…
● スタート地点から:859km
数台しか止められない「うみねこ温泉 湯らっくす」の駐車場は案の定いっぱい。
公式サイトの指示通り、すぐ隣にあるスーパー「びはんストア オール店」の駐車場にクルマを止めます。
時刻はギリギリ18時を回ったところ、とりあえず迷惑をかけるような時間にはならずに済みました。
先に夕食を。地のものだったりそうでなかったりするものの、海のものがメインでいただけます。一見馬刺しは東北のイメージではないものの、実は馬肉生産量の2位・3位は福島県と青森県だったりします。特に紹介はされていませんでしたが、近い青森県のお肉だったのでしょうか?
別料金にはなりますが、岩手近辺の日本酒もラインアップされていました。確か菱屋酒造「千両男山」だったと思いますが、地元宮古のお酒も飲んで気分上々です。
温泉で1日の疲れを洗い流して部屋に戻ってきました。湯らっくすの宿泊施設はオマケのようなもので、簡素なビジネスホテルといった雰囲気。アメニティはちゃんと用意してくれています。
日本酒1合だけではちょっと物足りなかったので、隣のスーパーでビールなどを買って部屋で風呂上がりの一杯をキメます。
お酒も回りましたし、充実した盛りだくさんの1日だったので心地よく眠れそう。おやすみなさい。