あさかぜみずほの趣味活動記録簿

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志摩スペインゴ村に、来た! - 2日目II(2023年3月14日)

※当記事の内容は2023年2月11日~4月2日の間で開催された初回コラボ「みなさま~広報大使志摩スペインゴ村へ、来て!」です。2024年2月開催の内容ではありませんのでご注意ください。

 

グラナダスの門」をくぐってサンタクルス通りへと進みます。

 

きれいな花が咲いたバスケットが家屋の柵や壁に飾られています。志摩スペイン村では1年を通して必ずどこかで花が咲いているのだそう。
公式ブログにある「花だより」のポストでは、スペイン村で見ることができる花々の種類が紹介されています。

 

志摩スペイン村 花だより ~Flores a Flores~|志摩スペイン村 オフィシャルブログ

https://www.parque-net.com/blog/?p=13289

 

 

 

スペインがイスラム教に支配されていた時代にはスペイン南部の都市セビリアにはユダヤ人街があり、今歩いているサンタクルス通り」のモチーフとなったサンタクルスです。
15世紀にレコンキスタイスラム教からスペインを取り返すための戦争)を終えてからしばらく経つとスペインはユダヤ教徒追放令を発令し、ユダヤ人はセビリアから逃げるか、キリスト教への改宗を迫られることになりました。

 

パルケエスパーニャのサンタクルス通りにはカフェやショップに加え、ヨーロッパにおいてワインやビールがどのように作られ発展してきたかの歴史に触れることもできるコーナーもあります。

ワインはイタリア、ビールはチェコとドイツの話がメインで、スペインは全く登場しないのはご愛敬です。
ちなみにスペインは紀元前後の古代ローマ時代にはすでにワインの一大産地として名を馳せていたようです。しかし8世紀頃からお酒を飲んではいけないイスラム教徒によって支配されるようになったため、大半のブドウ畑は破壊されてしまいました。

キリスト教徒の手へ戻ってからワイン造りが再興し、19世紀後半にフランスの虫害から逃れた人々によって醸造技術が持ち込まれたスペインは、ワインの品質も生産量も一気に向上します。
現在、スペインではブドウの作付面積が世界第1位という規模にまでなりました。

 

周央サンゴさんとのコラボが始まってから「過去見たことがないほどに混んでいる!」と話題志摩スペイン村ですが、のんびりと見て回っていると必ずどこかで誰もいない瞬間があります。有名どころのテーマパークだったら考えられない話ですが、これもパルケエスパーニャならではの光景といえるかもしれません。

人混み嫌いのあさかぜからすれば自分のペースで好きなところをゆっくり見て回れるので、これ以上なくありがたい環境です。

 

色鮮やかな家屋と対照的にひっそりと地味に佇むこの建物は「オレオと呼ぶのだそう。スペイン北西部のガリシア地方に伝わる穀物倉庫で、雨の多い地方に適応した高床式の構造になっています。柱の出っ張った部分はネズミが上がってこないようにする「ネズミ返し」で、素材の違いはあれど日本の高床式倉庫に構造が似ていますね。

屋根には十字架が掲げられているのがキリスト教らしいところで、保存されている穀物に神の加護を願ったのでしょうか。

 

サンタクルス通りを抜けて坂道をずっと降りてくると、難破船らしき船の姿が見えてきました。このあたりがパルケエスパーニャの北の端っこ、最果てといってもいいエリアです。

 

ドンキホーテ冒険の旅」のエントランスにンゴちゃんのスタンプ。
ここまで何のアトラクションにも乗らずにただひたすら歩いてきただけなので、せっかくですから何かに乗っておきたいところです。

といってもあさかぜは絶叫マシンというものが死ぬほど苦手で、高校の修学旅行でUSJに行った時でさえ地上で仲間が戻ってくるのを1時間半待ち続けたぐらい乗りたくない。
見たところ志摩スペイン村の世界観を味わう子供向けの乗りもののようなので、警戒する必要はなさそうです。

 

想像通りゆったりしたアトラクションでした。キャラクターの紹介もあったりして世界観がよくわかって楽しかったですが、もうちょっと手前側にあってもいいんじゃないかという乗りものでしたね。

入り組んだ海岸線が特徴的な志摩半島は内湾に入ってくると海がとても穏やかです。今日は風もなく、日が照ってぽかぽかしていて気持ちがいい、というかちょっと暑いぐらい。

 

難破船のようなモニュメント「ガリオン船 アルナ号に入ってみます。
ガリオン船、教科書ではガレオン(Galleon)船と教わりますが、16~18世紀の大航海時代絶頂期に使われた帆船です。当時としては大型の船でしたが、その大きさは500~600tと今の感覚からするとかなり小さなもの。

材質が木か鉄かという違いはあるものの、現代の600tといえば離島を結ぶ小型フェリーぐらいの大きさ。そんなサイズでスペインから太平洋を越えてメキシコのアカプルコへ、さらには太平洋を越えてフィリピンまで向かっていたというのですから驚きです。
相当な数の船や人が犠牲になったことは容易に想像がつきますが、多大な犠牲を払っても一獲千金の夢があったのでしょうね。

 

パルケエスパーニャの最果てということもあって、人影がほとんどありません。カフェなどもありますが、このあたりの店舗は訪問客の多い土日のみの営業になっているようです。

コロンブス広場の名の通り、中央に立っているのはアメリカ大陸を発見したコロンブスの像。当時のスペイン女王の支援を受けて15世紀末にアメリカ大陸に到達しますが、彼はインドに到達したものと思い込んでいました。まだアメリカ大陸」という存在があるとは考えられていなかったのです。
現在はネイティブアメリカンと呼称される南北アメリカの原住民の人たちが「インディアン」「インディオ」と呼ばれたのは、インドに住む人たちだと勘違いされていたから。

アメリカ大陸が正式に新大陸として定義されるのは、コロンブスの「発見」から10年以上あとにアメリゴ・ヴェスプッチの論文が発表されてからです。

 

コロンブス広場の先にあるのは「フェリスクルーズののりばです。

 

8人乗れるボートに1人で乗って、フェリスクルーズに出航。このアトラクションはガリオン船「アルナ号」で難破した船員たちがたどり着いた幸せの島、という設定です。
1年を通して花が咲き誇るミニチュアの街を通り抜けていきます。

 

過去の「乗船記」をネットで探してみると、10年以上前は正面に見えるお城の中まで入っていったようです。現在はその手前でUターンして屋外のみのルート。

 

ミニチュアの街ではスペイン伝統のお祭りの光景も再現されています。
写真はスペイン三大祭りに数えられるサン・フェルミン祭での有名イベント「エンシエロ(牛追い)」を再現したもの。闘牛の前を何百人もの市民が走るのだそうです。

 

www.nta.co.jp

 

 

フェリスクルーズのすぐそばにある建物のエスカレーターを上がってくると、まもなくレンガ造りの大きな建物が見えてきます。
おそらく日本で最も有名な宣教師であろうフランシスコ・ザビエルの生家を再現した「ハビエル城博物館です。

 

博物館の内部はスペインの伝統的な美術・芸術品や有史以前からの歴史まで幅広く触れています。

入口付近にそびえるのはヒガンテスというお祭りの時に登場する大きな人形。中に人間が入って、祭りの音楽に合わせて踊るのだそう。

 

今でこそスペインはボルボン朝とも呼ばれるスペイン・ブルボン朝が君臨する王政の国ですが、1975年までの42年間は王を頂かない共和制国家でした。

スペインで長きにわたり独裁者として君臨したフランシスコ・フランコは、自身の衰えを意識し始めた1969年にフアン・カルロスを後継者に指名し、1975年に82歳で亡くなりました。
国民の間では、独裁制の間に停止されていた憲法を復活させようという民主化運動が盛り上がります。1978年、正式に憲法が制定されて現在のスペイン王国の姿ができあがりました。

 

旧石器時代に描かれたと推測されるアルタミラの洞窟壁画」のレプリカ原寸大のものはパルケエスパーニャを含めて3カ所しかないそうです。

1879年に地主の娘が散歩中にたまたま発見した壁画は、当時の学者からは大いなる疑いを持たれていたとか。娘とともに洞窟を発見した地主は学者たちから狂人とか詐欺師などとバカにされて注目されず、この壁画の価値が正しく評価されたのは地主が亡くなった15年後でした。

 

「黄金の国ジパング」という概念を世界中に知らしめた、マルコ・ポーロの著書『東方見聞録』。13世紀末に書かれたこの旅行記は、15世紀に印刷技術が発明されると広く流通するようになりました。

展示されている本はコロンブスが手に取り、やがて大西洋横断へ向けてこぎ出すきっかけとなった印刷版『東方見聞録』のレプリカです。余白のメモはコロンブス自身が記入したもので、海の外の世界に強い関心があったことがこうしたところからもわかります。

この展示のそばにはコロンブスが大西洋を渡るのに使った帆船模型の展示も。

 

スペイン国立装飾博物館の展示バレンシアの台所」を再現した一室。
園内にはいたるところに絵の入ったお皿が飾られていますが、バレンシア地方では皿だけでなく絵入りのタイルも大量に作られていました。
スペインは長い間ウマイヤ朝支配下にあったこともあり、絵のデザインにはイスラム教の文化の影響が強く表れたものだと言われています。

芸術でも医療でも、中世ではイスラム教の方がキリスト教世界よりもだいぶ進んでいましたから、当時のヨーロッパでは画期的なデザインだったことでしょう。

 

この一角はバレンシア地方で生産される伝統的な陶器「マニセス焼」の工房を再現しています。青や黄色を多用したのがマニセス焼の特徴で、ルネサンス期には特にイタリアへ大量に輸出されたのだそう。

タイルや飾り用のお皿だけでなく、薬の壺や水差しなど多種多様な陶器製品が作られていて、ここに再現されている伝統的な工房では鳥かごまで作られたことがあるのだとか。陶器製の鳥かご…?
数千種類あるとされる1つ1つの陶器は全て手作りで、もちろんイラストも全て手描き。

 

tabicoffret.com

 

 

そこそこ駆け足で見てきたつもりでしたが、なんだかんだで1時間近くかかってしまいました。芸術にさっぱり明るくないあさかぜでもこれぐらいかかっていますから、造詣の深い方ならもっと時間がかかることと思います。

ところでビエルの生家のビエル城」というのはかみ合っていないように見えますが、Xavierはバスク語だと“シャビエル”に近く、現代のスペイン語だとJavierに変化して“ハビエル”となるのだそうです。
日本で“シャビエル”がいろいろなところに伝わった結果、“ザビエル”になったんだろうという気がなんとなくしてきますね。

 

※当記事の内容は2023年2月11日~4月2日の間で開催された初回コラボ「みなさま~広報大使志摩スペインゴ村へ、来て!」です。2024年2月開催の内容ではありませんのでご注意ください。

 

>>つづく<<