楽しかった旅行も今日が最終日…明日はまた仕事だと思うと気分が悪くなりそうです。
チェックイン時に悩んだのですがホテルの朝ご飯はパスして、せっかくですから朝市に繰り出すことにします。「観光客から金を巻き上げるためにある」なんてよく言われる函館朝市ですが、百聞は一見にしかずです。見てみて手が出せそうにないのなら別のものを食べることにしましょう。
ウニ丼で有名なお店は長蛇の列ができていました。3,000円以上もするのに…しかもウニだけってなんだか飽きそうですが、やはりどんぶりがドーンとウニで埋め尽くされているインパクトは訴求力があるのでしょう。
朝からウニだけ食べても仕方がないな、とウロウロと1周してきてしまいました。優柔不断な性格がここへ来て出てきますが、新鮮なイカも海鮮丼も食べられるらしい「道下商店」にようやく決めます。
「欲張りセットB」を選んでみました。2,500円だなんて贅沢な朝ご飯!
海鮮丼はカニ、ホタテ、ウニの3色丼、そこにイカ刺しがついてきます。しかもご飯のおかわりもできる。
海鮮丼を食べ終わるタイミングで店員のおばちゃんが「ご飯おかわりいるでしょ?どんどん食べなきゃ!」と容赦なくオーダーを取りに来ます。ホカホカの白いご飯に新鮮なイカという組み合わせがまたおいしいこと!
ついついはち切れんばかりに食べてしまいました…
ホテルに戻って身支度を調え、最後の観光に繰り出します。
函館駅から徒歩5分ちょっとのところにある「青函連絡船記念館摩周丸」に行ってみましょう。1988年3月の青函トンネル開業まで現役だった青函連絡船「摩周丸」をそのまま展示館として利用し、北海道と本州を結ぶ生命線だった青函連絡船の歴史を振り返る施設です。
数年前に外から見た「八甲田丸」と同様にメモリアルシップとして中が公開されている摩周丸。近代化産業遺産にも認定されています。
航行のできない「係留船」とされているのも八甲田丸と同じ。陸地につながれているとはいえ海に浮いているので、船独特のきしみが時折聞こえてきます。
青函連絡船というと国鉄時代のイメージですが、実は分割民営化から青函トンネルの開業までは約1年のブランクがあり、その間はJR北海道が運航する航路でした。最終日の映像を見ると煙突についているファンネルマークが実はJRマークだったりします。
展示館となるにあたって船内はだいぶ改造されていますが、壁に掲げられた客室案内図からは当時の姿が想像できます。
上階が今のグリーン席に相当する1等客室、下の階が普通席相当の2等客室となっていたようです。グリーン相当のカーペットスペースってどんな感じだったのでしょうね。2等よりも毛布の毛足が長かったとか、カーペットや枕がいいものだったりしたのでしょうか。
ちなみに現在係留されている摩周丸は2代目。模型で再現されている初代の摩周丸は戦後の1948年に就航し、1964年まで活躍しました。初代は「洞爺丸型」と呼ばれた一族に属し、この時代は敗戦直後ということもあってGHQの許可を取らなければ船も造れませんでした。
青函連絡船も戦争の被害を激しく受け、稼働する船の数が大幅に減っていました。北海道に駐留するアメリカ軍の物資輸送にも支障を来すようになったので、ようやく「洞爺丸」「羊蹄丸」「摩周丸」「大雪丸」の洞爺丸型4隻と、旅客を乗せない鉄道車両航送専用の4隻を合わせた8隻の建造許可が下りたのだとか。
青函連絡船といえば避けては通れないのが洞爺丸台風の話です。
1954年9月に日本列島を通り抜けた台風で、めったにないことですが日本海上で異常に発達して北海道に甚大な被害をもたらしました。北海道の西側に到達したときの気圧は956hPaという強さで、最大風速42mという数字を記録しています。
この時函館から青森に向かおうとしていたのが「洞爺丸」でした。台風のスピードが上がっており、天候の回復が早まると読んだ船長はおよそ4時間遅れで函館を出港します。
ところが防波堤を出るなり猛烈な風と波に襲われて航行が危険な状態になってしまいました。実は台風は減速して抜けきっておらず、まだ嵐が吹き荒れている中に飛び出していってしまったのです。船長は投錨して船を一旦止めることを決めましたが、猛烈な波風によって船はズルズルと流されていきます。錨を入れているのに流されてしまうことを「走錨」と言い、これに加えて波が車両甲板から船内に侵入し、やがてボイラーまで浸水したことで航行出来ない状況に陥ってしまいました。
七重浜という遠浅の海岸が近くにあったため、船長は洞爺丸を七重浜に座礁させることを決めました。もくろみ通り七重浜には到達したものの、収まらない波風で傾きは大きくなり、やがて左舷の錨をつなぐ鎖が切れて転覆。数分後には沈没してしまいます。
乗客乗員合わせて死者・行方不明者1,155名という大惨事になりました。日本史上最悪の海難事故です。
他にも4隻の船が函館港の外で沈没し、5つの船を合わせた犠牲は1,430名…言葉には言い表せない凄惨な事故となってしまいました。
この2代目「摩周丸」が現在展示館となっている船です。1965年に就航し1988年の青函連絡船運航終了まで活躍しました。総トン数8,300トン以上となって、4,000t弱だった初代摩周丸の倍ぐらいの収容力に。乗客数も500人ほど増えて1,200名に、貨車の積載量も48両分となって大幅な輸送力強化につながりました。
洞爺丸事故の教訓を生かして甲板の水密性や救難ボートなどの構造が改められている他、錨の形も青函連絡船独自のものに変化しています。
こちらは青森港に展示されている「八甲田丸」の模型。
ネームシップとなった「津軽丸」をはじめ、就航順に「八甲田丸」「松前丸」「大雪丸」「摩周丸」「羊蹄丸」「十和田丸」の計7隻が津軽丸型として建造されました。
一等船室の寝台には毛布が様々な形に折られていたそうです。この「大輪」以外にいくつもの折り方があり、それらは隣に実際に折った姿で展示されていますのでぜひとも見てみてください。職人技のすごさにびっくりします。こんなおもてなしをされたら、崩すのがもったいなくて毛布が使えなくなってしまいそうです。
ブリッジに上がってきました。ブリッジとは船の操船室のことで、電車でいう運転室にあたります。漢字では「船橋」と書きますが、「ふなばし」ではなく「せんきょう」と読みます。軍艦などでは「艦橋 かんきょう」と呼びますね。
大きな船だけあってブリッジも広々としています。大型機でも狭苦しい飛行機のコクピットとは大きな違いです。船というのはつくづく優雅な乗り物です。
ブリッジから見える「函館どつく」では海上自衛隊のあさひ型護衛艦「しらぬい」が整備に来ているようです。
操舵室の裏は通信室となっているようです。右側に写っているのはモールス信号を打電するための機械です。なぜか中学校だか高校時代にモールス信号を学ぼうと思った時期がありましたが…
左側のインターホンのロゴが「ナショナル」です。パナソニックになってからだいぶ経って、Nationalのロゴもだいぶ珍しくなってきました。
ナショナルのインターホンは操舵室につながっているそうです。
こちら側のスイッチの接触でも悪かったのか、通信室ではインターホンの呼び出しブザーが鳴り続けていました。
船も様々な情報を受信したり相互に通信し合っていることがわかります。各所に見える「国鉄」や「電々公社」の文字に時代を感じますね。
ちなみに中央下に写っているJHMIは船名符字というもので、総トン数100トン以上の船につけられるナンバープレートのようなものです。船名符字は英語で「コールサイン」と呼び、船の文化が強く反映された飛行機の世界でもなじみがあるものです。
無線ではアルファベットをそのまま読むと紛らわしいので、「フォネティックコード」という読み方が定められています。JHMIの読み方は「ジュリエット ホテル マイク インディア」。
JR北海道の駅数は2020年6月現在で390駅(うち有人駅101)。ポスターに載っている1988年6月では613駅もあります。およそ30年で路線も駅も大きく減ってしまいました…
甲板には摩周丸で実際に使われていたスクリューが飾られています。「可変ピッチプロペラ」と呼ばれるもので、ついている4枚の羽根の角度を自由に変えることができます。スピードの調整はもちろんのこと、エンジンの回転の向きを変えることなく後ろ向きの力を出すこともできます。航行中に急ブレーキが必要になったとき、プロペラのピッチを変えてブレーキ代わりに使うことができるというわけです。
一緒に引っかけられているのは錨(アンカー)をつないでいた鎖です。直径は62mm、鎖1個1個の重さは21kgもあります。
煙突に描かれているファンネルマークはJNR、日本国有鉄道のロゴマークです。青函連絡船の津軽丸型では控えめな大きさのファンネルマークですが、やはり船の象徴的な部分です。大型のフェリーではあえて大きな煙突を用意していっぱいにファンネルマークを描いていることが多いように思います。去年見学した太平洋フェリーの新造船「きたかみ」にも大きくロゴマークが描かれていました。
出発時にはこの通路に乗客が集まって、港で見送る人たちに別れを告げたのでしょう。豪華客船ではないので色とりどりのテープが飛び交うなんてことはなかったかも知れませんが、ハンカチやタオルを振る光景はあったかもしれません。
摩周丸の船首へ出てきました。青函連絡船は船体の色が赤・青・黄と3つの色に分かれていました。この摩周丸は青色、青森駅近くに係留されている八甲田丸は黄色。最後まで現役で活躍していた船たちの写真は摩周丸の中に飾られていますのでぜひご覧になってみてください。
洞爺丸事故のところでも触れた錨の形。イギリス海軍で使われていた錨をコピーしたものをJIS規格のもの(上写真)として使用していましたが、洞爺丸事故では水底につなぎ止めるための「把駐(はちゅう)力」が足りなかったために走錨に至ってしまいました。
そこで国鉄はアメリカで開発されたバルドー型という錨を参考に、約40%高い把駐力を発揮する錨を開発しました。これが「JNRアンカー」で、この摩周丸でも船首で見ることができます(下写真)。ただ国鉄以外ではほとんど採用されず、現在の多くの商船はやはりイギリス海軍で開発されたAC-14をベースにしたJIS型TYPE Bを搭載しているそうです。
新しいJIS型でも把駐力は万全とは言えず、弱点もあります。錨の把駐力で不足する分は鎖を長く垂らしてその重さで動かないようにする、ということをやっているそうです。そのため、必要な分の2~3倍の長さの鎖を積んでいるのが現状。先ほど見たとおり鎖1個は20kg以上あるわけですから、長い鎖全部の重さはすさまじいものです。理想的な錨の開発はとても難しいことのようです。
模型でも見たとおり、車両を積み込む後部ハッチは水密扉がつきました。洞爺丸事故で車両甲板に海水が入り込み、船が安定しなくなった教訓によるものです。
船の後方には車両を積み込むための可動橋がありました。現在は可動橋そのものは残っておらず、上下に移動させていたクレーンの部分が残っているだけです。
函館駅に伸びていたはずの線路も撤去されており、船の手前はきれいな広場と道路になっています。
ちなみに連絡船へ通じる線路をぶった切るように建っているのが、昨晩泊まった「JRイン函館」です。ホテルを含め周辺はきれいに再整備されているので、ご覧の通り函館駅からの線路は跡形もありません。
ただGoogleマップの航空写真を見てみると、この岸壁まで線路が延びていたことは一目瞭然です。函館駅の緩やかなカーブはこの青函連絡船につながるためのものだったわけです。
青森県側に展示されている八甲田丸も可動橋そのものは残っていませんが、可動橋へ分岐していく線路は残されているのでより当時の雰囲気をリアルに味わうことができます。
ただ函館・青森とも機械遺産へ登録されてはいるものの、特に青森側はかなり老朽化が進んでいるように見受けられました。この写真を撮った2013年12月でさえそう思ったぐらいですから、7年が経過した現在ではさらにボロボロになってしまっているかもしれません…
いよいよ帰途に就く時…
現実逃避のあまり予定より早いキハ40系の普通列車に乗ってしまいました。この列車はすれ違いの関係か、新函館北斗駅の東側を素通りしていく支線を通過していきます。そのため新函館北斗駅に行こうとしたら30分ほどあとに発車する「はこだてライナー」に乗らねばなりません。
ただJR北海道は新型車両H100形を投入している真っ最中で、キハ40系王国だった北海道でもキハ40系の先行きは長くありません。乗れるうちに乗っておくのが平和です。
七飯駅に到着しました。ここから森ゆきの普通列車は先ほど触れた「藤城線」というショートカットを進んで行ってしまうため、ここで後続のはこだてライナーを待ちます。
ディーゼルカーのキハ40系は函館~七飯間を20分かけて来ましたが、あとから来る「はこだてライナー」の733系電車は16分で走り抜けてきます。どちらも停車駅は同じですから、単純に電車の加減速性能が圧倒的に高いわけです。
その「はこだてライナー」は満員…さすが三連休最終日です。新幹線が混むこともわかっているのだから、3両じゃなくて6両で走らせてくれればいいのに…と思わずにはいられません。
七飯からは6分で新函館北斗に到着しました。ここから新幹線で一直線に首都圏へと戻ります。
2030年度末の完成を目指して建設工事が進む北海道新幹線の新函館北斗~札幌間。線路は駅のすぐ先で途切れていますが、そのずっと先には山を貫くトンネルがぽっかりと口を開けています。
国の主導で建設が進められている計画では時速260kmが上限ですが、線路の規格としては時速320kmでも充分に運転できます。JR東日本とJR北海道は工事費を自己負担の上でスピードアップさせることを決めており、将来的には盛岡から北側でも時速320km運転が可能になる予定で、さらに時速360km運転も目指しています。
10年後にはどういう姿形の新幹線が走っているのでしょう。今でも320km/hで走るE5系の「鼻」の長さは15mもあります。1両あたりの長さが25mですから鼻だけで2/3もあるわけです。
ちなみに将来の360km/h運転を目指して試験中のALPHA-Xという車両は、長い方で22mという超ロングノーズ。もはや残ったスペースは貨物室にでもした方がいいんじゃないかと思うぐらいです。空気抵抗、騒音、エネルギー効率、線路の保守…スピードアップには様々な課題が立ちはだかります。
「はやぶさ32号」は滑るように新函館北斗を発車しました。7割方は席が埋まっているようで、さすが連休といった雰囲気です。あさかぜの隣にもお姉さんが座り早速パソコンを開いています。
連休中までお仕事に追われるのは大変だな…と同情しつつ、無能会社員あさかぜはセイコーマートで買ってきたカツ丼をオープン。ついでにサッポロクラシックも開けてご機嫌なお昼ご飯です。
北海道といえばセイコーマート、セイコーマートと言えば「ホットシェフ」のお弁当です。たかだかコンビニの弁当と侮っている方はぜひ一度食べてみていただきたい。
「次回北海道に行ったら食べるものリスト」に加わること請け合いです。
八戸を出ると満席になりました。仙台で若干の入れ替わりはあったものの、満席状態に変わりはありません。隣のお姉さんもパソコンに向かい合ったままで、あさかぜは何となくトイレに立ちづらい雰囲気になります。どうしても通路側に人がいると遠慮してしまうんですよね…
上野で降りたら京成電車で自宅へ戻ります。
「えきねっとトクだ値」で半額が設定されていたためもあるでしょうが、久しぶりにあんなに混んだ新幹線に乗りました。普通なら片道2万円以上する新函館北斗→東京が11,600円だったのですから破格です。
思っていたよりずっと楽しかった函館。また行ってみたくなりましたね。