だいぶ前のブログ記事で、開発中のATR42-600Sがどんな飛行機かということに触れました。
簡単にまとめれば
- エンジン・動翼・ブレーキ・コンピュータの改修によってSTOL(短距離離着陸)性能がATR42-600より向上
- 定員の48人そのままに、900m未満の滑走路から離陸可能
- 性能は制限されるが800mの滑走路でも離着陸できる
という飛行機です。
2023年9月現在の日本では佐渡空港(滑走路長890m)へ新潟の新興エアライン「トキエア」が就航させる予定、という話にとどまっていますが、ATR42-600Sはもっと大きな可能性を秘めています。
それは、小笠原諸島への航空路です。
<STOL型のベースとなるATR42-600。日本国内では写真の天草エアラインの他、日本エアコミューター、北海道エアシステム、オリエンタルエアブリッジが運航している>
東京都小笠原村は本土から約1,000km離れています。父島に約2,100人、母島に約500人が暮らしているほかは無人島。
太平洋戦争中の激戦地であった硫黄島も小笠原村に属しますが、居住・立ち入りは自衛隊とその関係者のみに限られるため、民間人は基本的に立ち入ることはできません。
そんな小笠原村と本土を行き来できるのは船のみ。
東京の竹芝埠頭から小笠原海運「おがさわら丸」で父島の二見港まで24時間、母島までは「ははじま丸」に乗り継いでさらに2時間を要します。
運航便数は「おがさわら丸」がおよそ6日に1往復、「ははじま丸」は週4~5便。父島~母島はまだしも、本土~父島の往来はかなり制限されています。
観光客は「絶海の孤島」気分が味わえるからまぁ良いとしても、小笠原に暮らす島民にとってはとても大変なこと…
<芝浦埠頭で貨物を積み込んでいる「おがさわら丸」。東京~父島間は片道24時間もかかるため、妊婦さんの乗船も条件が厳しくなってしまう>
そこで2020年代に入ってから小笠原への空港建設が再び真剣に議論されています。航空路ができれば本土への所要時間は2~3時間と劇的に短縮され、アクセス性は大幅に向上します。
とはいえ、小笠原諸島は貴重な生態系を持つ世界遺産の地。環境に及ぼす影響を考慮すると、簡単に「造りましょう」とはできません。
今のところ候補地として最有力なのは父島西岸にある洲崎地区。世界遺産にはギリギリ含まれないこの場所に、南北方向に1,000mの滑走路を設けてはどうか、という話になっています。
当初は1,200mの計画でしたが、ATR42-600Sであれば1,000mでも充分足りるとなったわけです。
「たかだか200m」と思ってしまいますが、飛行機の安全な発着のためには滑走路の前後左右にも影響が及びます。
特に着陸をやり直す時(「着陸復行」といいます)に飛行機が山や建物にぶつからないよう、滑走路の真ん中を中心にすり鉢状に高さの制限が決められているのですが、滑走路が長く幅が広いほど、その影響範囲は広がります。ですから小笠原のような場所では可能な限り滑走路を短くして、周囲の山を削る範囲を最小限にしなければなりません。
<二見港から湾を挟んで反対側が洲崎地区で、ギリギリ世界遺産には含まれない。MSFS2020のスクリーンショットより。洲崎には戦時中に海軍の飛行場があった>
でも、なぜそこまでして空港を造ろうとするのか?
何も観光客の利便性のためではありません。
背景には島民の生活、特に重病・重傷になったときの搬送の問題があるからです。
大きなケガ、重い病気にかかって一刻も早い対処を必要とするとき、離島である小笠原では酸素、輸血など医療資源に限界があります。では設備や資源の整った本土の病院へ搬送がいるとなったとき、どれほどの時間がかかるのでしょうか?
小笠原診療所が発表しているデータによると、救急搬送の要請をしてから病院に収容されるまで2020年の平均は10時間14分、2019年では9時間40分。2014年に発表された論文「小笠原諸島の緊急航空機輸送の現状と課題」の中でも、2004~12年度の平均は9時間34分となっていて、非常に長い時間がかかっていることがわかります。
これは要請を受けた病院の医師が羽田空港や厚木基地に向かい、自衛隊の飛行艇で父島の二見港、もしくは哨戒機でさらに南側の硫黄島に飛んで来なくてはならないからです。
この救急搬送の時間が短縮できれば容態が悪くなる可能性を下げられるでしょうし、早い段階で高度な治療を受けることも可能になります。
<二見港に直接横付けできる海上自衛隊の飛行艇US-2。写真からもわかるとおり、地上にいるときは乗降口までかなりの高さがある>
妊婦さんも同様で、船に頼るしかない現在は妊娠8ヶ月ぐらいで本土の病院に移動して入院せざるを得ず、金銭面でも精神面でも負担となっているのが現状です。
これは「おがさわら丸」に妊娠後期の乗船制限があるからですが、丸1日外海を航行する以上は「制限を緩和しろ」と言っても無理なものがあります。
航空便ができて制限が大幅に緩和されるのなら(JALやANAでは出産予定日の4週間以内でも医師の診断書があれば搭乗できます)、お母さん達の負担もかなり楽になることでしょう。
このようにATR42-600Sの実用化と小笠原空港の建設は小笠原村民の強い味方となるわけですが、もちろん“おいしい話”だけではありません。
先述したように空港の建設は環境に大きな影響を与えます。当初の計画よりもスリム化したとはいえ、周辺の山を削ることには変わりないですし、海中の生物への影響も考えねばなりません。
豊かな自然への影響については、村民へのアンケート結果からも不安がうかがえます。
単純に人の往来が増えることによる影響も無視できません。
連休中に現れる、自分のことを「お客さま」と思い上がったクソみたいな連中が押しかけることによる治安やマナーの悪化もさることながら、もっと大きな問題は生態系を破壊する生物の侵入です。
イヌ、ネコ、鳥類などのような動物は搭乗前に断ることができるとしても、植物の種子が意図せず体や荷物にくっついて入り込んでしまうというのはよくある話です。細菌やウイルスといった目に見えないものならなおさら。
人やモノが往来する以上は気にし始めたらキリがないことではありますが、そうした外からの「異分子」を可能な限り排除するのは、便利になるのとは相反する条件です。
こうした背景を見ると、ATR42-600Sの登場は小笠原空港の実現可能性を上げるものではあっても、決め手ではないということになりますが…
<海上自衛隊の哨戒機P-1。父島に滑走路はないため、急患は硫黄島にヘリで移送してから哨戒機で本土に向かうことになる>
ちなみに、小笠原航空路協議会では、ATR42-600Sの他にアグスタウェストランドのAW609という飛行機も検討の対象となりました。
飛行中にエンジンの向きを変えることで、ヘリコプターのように垂直に離着陸ができ、飛行機のように主翼で飛ぶこともできる「ティルトローター機」です。
そう、戦争反対派の方々が 大 好 き な V-22 オスプレイと同じ仕組み。
実際にAW609はオスプレイの知見を生かして設計されており、垂直に発着するVTOL性能と、ローターを斜めにすれば積載量を増やした上で400mの滑走路から離陸できるSTOL性能を併せ持っています。
ヘリと違い揚力をローターだけに頼らないので、航続距離も約1,300kmと本土まで充分。
ATR42-600Sと同様、AW609も量産できる体制に達しているようです。
ただし機体サイズはオスプレイの約半分、搭乗人数も9人と、ATR42-600Sの48人、オスプレイの約30人に比べるとかなり少ないので、客を乗せて飛ぶ「定期旅客便」として使うには運用コスト面で難しいかも…
その点は東京都もわかった上で提示しているとは思いますけどね。
とはいえ、小笠原空港が実現できるまでのつなぎとして、国や都が補助をしてAW609で運航するのもアリなんじゃないか、と個人的には感じています。
小笠原空港の計画がどこまで具体化するか、今後の動向に注目です。
<大型の輸送用ヘリコプターCH-47「チヌーク」。航続距離は約1,000kmで、本土との往復どころか片道すら直行は厳しい>
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参考資料:
小笠原空港、いよいよ実現か 航空会社はどこで、どんな飛行機が飛ぶのか - 乗りものニュース
https://trafficnews.jp/post/79465
※2018年1月の記事なので情報は少し古いです
小笠原空港計画はどこへ行く。「垂直離着陸機」導入も検討へ - タビリス
https://tabiris.com/archives/ogasawara-airport2020/
島民悲願の小笠原航空路 道遠く 工法、環境配慮、航空機選定 課題山積 - 産経新聞
https://www.sankei.com/article/20221125-SDMRKEO4CZJMBC2X2AZ7R75DDA/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsem/17/3/17_461/_pdf
※PDFファイル
http://www.ogasawaraclinic.jp/pdf/r5gaiyou.pdf
※PDFファイル
小笠原航空路の検討状況について - 東京都総務局
※PDFファイル
航空路アンケート集計表 - 小笠原村
https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/wp-content/uploads/sites/2/2014/10/airline_research.pdf
※PDFファイル
洲崎飛行場跡地(父島) - 空港探索・3