台北駅のすぐ西側、MRT北門駅との間には国立博物館の鉄道分館といえる「國立臺灣博物館鐵道部園區」があります。
開館時間は9:30~17:00(火曜休)で、入館料は大人100NTD。
2020年7月にオープンした新しい施設で、展示館の建物は日本統治時代の鉄道部が使用していたもの。独立後も1993年まで現役で使用されていました。
建物の大きさに限りがあるので実車展示こそないものの、精密に再現された模型や実車から切り出したモックアップが各所に展示されています。
写真は絶滅危惧種となっている莒光号の客車を再現したモックアップ(※ 莒光号については先月の旅行記をご覧ください)。本物の乗車機会にこそ恵まれなかったものの、ここでどんな雰囲気だったのかを味わうことができたのは思わぬ収穫でした。
機関車に掲出されていたヘッドマークも展示されていました。
莒光号は1960年に「観光号」を前身としてスタートし、1970年に正式な運行を開始した列車種別ですが、2024年内でその半世紀以上の歴史に幕を下ろすことが決まっています。
「自強号」を象徴する存在が模型で再現されているEMU100型です。1978年に「自強号」の設定とともに運行を開始した車両で、イギリスのGEC(現 仏・アルストム)が5両編成13本を製造しました。
1M4T、つまり編成中にモーター車が1両しかなかったので、モーターが故障するとすぐに運行不能になるという弱点を抱えた車両ではありましたが…
現地の鉄道迷(鉄道ファン)からは“英国婆(イギリスおばあちゃん)”という愛称で親しまれ、保守部品の調達が難しくなったことなどを理由に2010年で定期運用を退きました。
引退後は動態保存される車両もいて、旅行の翌月(2023年11月)にも運転されたそうです。見たかったなぁ…
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ところどころ、何も展示のない部屋があります。現役当時どのように使われていたのか、雰囲気を感じ取って想像するのもまた楽しみです。
日本統治時代に鉄道が敷設されたためか、使われている信号や標識はなんとなく見覚えがあります。踏切はそのまま日本で見るようなものですし、左端のポイント標識、その隣の勾配標、さらに隣の徐行標識、中央の中継信号機はJRで使っているものとほぼ同一です。
YouTubeには台鐵の前面展望動画がいくつも掲載されています。それを見ながら日本と同じ標識だったり違う標識だったり、どんな意味があるのか考えてみるのも面白いでしょう。
こちらはタブレット。輪っかの端に袋がついていて、中に入っている金属板がその区間に入っていい「許可証」になります。同じ区間に2つの列車が入り込んでぶつかる!なんてことが起きないように考えられた原始的な「閉塞」の方法です。
時代が進んで通過列車が現れるようになると、いちいちタブレットのやりとりのために停車するのはムダです。当時は蒸気機関車の時代ですから、再発進には手間も時間もかかります。
そこで考え出されたのが「タブレット授受器」。
駅に入ってきた通過列車の乗務員は左に見えるらせん形の器具に持っているタブレットを引っかけ、駅の先端にある右の棒の上に置いてある新しいタブレットをキャッチして進みます。
原始的でフェイルセーフもないので、日本でも現在はほとんどの路線が信号装置を使う「自動閉塞」方式へ移行しています。
仕事でよく見る形の自動改札機。それもそのはず、メーカーは日本のオムロンです。
先月に台湾を一周したとき改札機の音を聞く機会が何度もありましたが、すさまじく聞き覚えのあるブザー音を発していました。仕事を思い出すので良い気分ではありません…
台鐵では「悠遊カード(悠遊卡 / ヨウユウカー)」が全線で利用可能なので、近距離ならきっぷをわざわざ買う必要はなくて便利です(自強号などの優等列車は専用の料金券が必要)。
駅弁の食品サンプル。現在は左側に見える使い捨て容器になっていますが、真ん中に見える金属製のお弁当容器は大きな駅にある台鐵グッズショップで購入することができます。
ミュージアムショップには鉄道関連はもちろん、他の博物館施設のグッズも並んでいました。普通の土産店では手に入らない博物館ならではなものもあるので、「ありきたりなお土産はちょっとなぁ」という方は各地の博物館を訪れてみるのも面白いでしょう。
涼しい博物館の中から一歩出ると強い日差しにクラクラする…
台北は沖縄より南側なので年中温暖、というより1月~3月を除けばいつも夏みたいな気候です。本館の裏手にはカフェもあるので、そこで水分補給をしながら休憩を取るのもオススメ。
敷地内に佇むコンクリート製の三角錐の建造物。「防空壕みたいな建物だな」と思っていましたが、ドアのところに「防空洞」と書かれていたので間違いなさそうです。
何も解説がついていないのでどういった時期に造られたものなのかは不明ですが、おそらく太平洋戦争後期のものでしょう。
かの戦争中、台北も何度かアメリカ軍の空襲を受けています。その中で最大だったのは1945年5月末の「台湾大空襲」で、B-24型爆撃機117機によって日本軍施設や行政施設を中心に徹底的な爆撃が行われました。市民の犠牲も免れず、現地の人も含めて3,000人が亡くなったとされています。
なおこの空襲で総督府庁舎は全体の8割に大きな被害を受けましたが、戦後に寄付を集めて建物を修復。現在は総統府として台湾の政治の中枢を担っています。
>>つづく<<