仕事終わりに上野の国立博物館にやって来ました。1月14日から始まったばかりの「特別展 ポンペイ」が目当て。
普段から知性のかけらもないことを言い続けているあさかぜですが、これでも一応大学では古代ローマ時代をネタにして卒業論文を書いたぐらいには好きな分野です。
さて、このポンペイ Pompeiiとはイタリア半島の中南部にあった古代ローマの街。紀元79年のヴェスヴィオ火山の大噴火で火砕流と火山灰に飲み込まれ、一瞬にして歴史から消え失せました。
その時のポンペイの人々にとっては悲劇以外の何物でもありませんが、18世紀まで手つかずのまま発見されることがなかったために、後世の我々にとっては当時のローマ人の生活をリアルに知ることができるこれ以上なく貴重な場所です。
人生で一度は行ってみたいのですが、ローマより南側の一人旅行は治安がなんとなく不安ですし、団体ツアーは名前を聞いたことのない旅行会社ばかり。悩んでいるうちに新型コロナウイルスが流行してしまい、海外旅行どころではなくなってしまいました。
そんなところへポンペイの数々の出土品が展示される機会ができたとあらば、これはもう行くしかありません。
開催期間が始まってすぐですが、平日ということもあってだいぶ空いています。やっぱり博物館や美術館は平日の午前中に来るのが一番いいですね。
最近の特別展などのありがたいところは写真を撮ってSNSに上げてもOKになっているというところです。少し前まではSNSに上げるのはもちろんのこと、写真を撮っていい展示品はごくわずかというのが当たり前でしたから、こうして時代が変わったのはありがたいことです。自分の好きな展示を気に入った角度で撮って、あとでじっくり眺めることができるようになったわけですから。とてもうれしい。
すべてを載せるわけにはいかないので、いくつか興味深いと思った展示品をご紹介しようと思います。
『フォルムの日常風景』と名付けられたフレスコ画。
ユリア・フェリクスの家のアトリウムから発見されたもので、日常的な商いの姿などが描かれています。
フォルムというのは広場のことで、英語のフォーラム forumにつながった言葉です。商売、話し合い、子供たちの勉強会などなど、多種多様な使われ方がされたといいます。
アトリウムというのは採光を主目的として設けられる中庭のこと。
ブロンズ製の『アウグストゥスの胸像』。
アウグストゥスは言わずと知れたローマ帝国の基礎を築き上げた初代皇帝です。なおアウグストゥスとは「尊厳者」を意味する尊称なので名前ではありません。この尊称は「カエサル CAESAR」という皇帝を示すようになった言葉とともに、のちのローマ皇帝へと引き継がれていきます。
アウグストゥスことオクタウィアヌスはとても顔立ちの良い人物。それゆえに年を取って髪の毛の後退した姿を後生に残したくなかったのか、像でもコインでも残されているのは比較的若い頃の姿ばかりです。
これは銅でできた水道のバルブです。この現代でも通じるような構造をしたバルブが2,000年前に作られ使われていたというのは驚異的です。
ローマ時代では多くの人口を支えるために、そこそこの都市では水道が整備されていました。一般家庭に配水とまではいかずとも、街角には井戸のような形で水を汲めるところがあったといいます。
大きな都市では下水も整備され、衛生観念もかなり高かったようです。
ローマ亡き後のヨーロッパでは蛮族の侵入や国家間の戦争によって、ローマ時代に築かれた上下水道は多くが破壊されたり放棄されたりしてしまいました。技術も失われて建設も維持もできなくなった結果、ペストが大流行する中近世のパリのような街が生まれたわけです。
筋肉質な裸体の男性は、ポリュクレイトス原作のブロンズ像『槍を持つ人』のコピーとされています。
古代ギリシアでは健全な魂は健康な体に宿るとされており、裸の男性の像が多く造られています。キリスト教の価値観が強くなって性器は隠すべきものという流れになっていますが、この当時はすべてをさらけ出してこその男らしさでした。
胸もお尻もとても筋肉質に描かれているのに、「男の象徴」は今の日本人の価値観で見るとずいぶん貧弱に見えます。
かの有名なダビデ像も割と貧弱ですから、大きさは重視されなかったのかもしれません。
黒い色のつけられたガラスのように見える杯は『黒曜石の杯』です。小さな石を組み合わせたものではなく、ひとかたまりの黒曜石から掘り出されたというのですから驚きです。
彫り込まれた部分に色のついた小さな石を埋め込むことで絵柄が作られており、ご覧の通りギリシアやローマの絵柄ではなくエジプト風のデザイン。紀元前1世紀頃にエジプト・アレクサンドリアの職人が作ったものとされています。
今の時代にこんな事をしたら怒られてしまいますが、古代ローマの当時は「食事は横たわってするもの」でした。この『饗宴場面』の中に描かれている右側の男女は2人とも「クリネ」と呼ばれるベッドのようなものに横たわって食事をしていました。ポンペイ展のカタログでは「臥台(がだい)」と書かれています。
左側の女性と少年は給仕とそれに従う奴隷でしょうか。
我々が当たり前だと思っている「座って食事をする」という行為は、当時では立ち食いと同じぐらい慌ただしいことだったわけです。
古代ローマではギリシアの影響を強く受けていました。芸術はもちろんのこと、人間とは、人生とは、自然とは、とあらゆるものの根底やあり方を考える哲学は、古代ギリシアを抜きに考えられません。
この『哲学者たち』に描かれているのは「七賢人」という紀元前7~6世紀に実在した哲学者や為政者で、まとっているのは古代ギリシア人が着用したヒマティオンというアウターです。
この絵画、何がすごいかというとモザイク画なのです…!
離れたところから「フレスコ画にしちゃずいぶんきれいに残ってるな」なんて近づいていってびっくりしました。たった約90cm四方の絵に敷き詰められているのは小さな小さな色付きの石。
…想像するだけで気が遠くなるような作業ですが、これを作るだけの技術も、作らせるだけの財力もあったということの裏返しでもあります。
大理石でできた『エウマキアの像』。
古代は今のように女性の地位が高くない、というより女性の権利なんてほとんど考えられていなかった時代です。女性の名前は家名からつけられていることがほとんどで、この女性もルキウス・エウマクスの娘だからエウマキア。
この付け方では1つの家の中に何人も同じ「名前」の女性がいたことでしょうが、歴史上では「大」「小」とつけることで姉妹を区別しているようですし、当時は姿や性格にちなんだあだ名なんかもあったのかもしれません。
ともあれ男女の権利や人権に大きな差があった時代において、女性の地位がまるっきり何も存在しなかったかと言われればそうでもありませんでした。エウマキアは裕福な父親の財産を使って毛織物の業者たちを保護するなど様々な政治活動を行い、この像はその功績がたたえられて作られたものです。
エウマキアは女性神官として表現されており、頭から亜麻布でできた厚手の「キトン」をまとっています。亜麻は健康的な油として人気のある「アマニ油」が取れるあのアマのこと。
背後から見てみると石でできているとは到底想像できない、柔らかな布の表現に感嘆してしまいます。
『ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥスのヘルマ柱』と通称がつけられた像。やはり男性らしさを表すためなのか、「男のお印」が表現されています。
ただ重要なのはイチモツではなく、この像のモデルとなっていると言われるユクンドゥスの父親もしくは祖父が「解放奴隷」だった、ということです。
仕えた主人の遺言や、給料から自由を買い戻し、奴隷の身分から解放された人々のことを「解放奴隷」と呼びました。解放奴隷は自由民ながら高位の公職にはなれませんでしたが、その子供は他の自由民と同じ完全な市民権が与えられました。
能力や才能のある解放奴隷や子供はそれを充分に活かし、特定の商売で大成功する人もいました。このユクンドゥスという人物もそうで、銀行業を生業にして富裕層と言えるまで上り詰めた人物。
ローマ人は自分のルーツを大切にしますから、解放奴隷だった先祖の像を造って飾っていたのでしょう。
この2つの器はポンペイで作られたものではなく、現在の南フランスに相当する南ガリアで作られました。精密な模様が入った美しい器が、2000年前の当時に高いクオリティを保って大量生産されていたと考えると、文明の高さに驚きます。
現代よりは未発達とはいえ、医師という職業はありましたし、彼らが使う専用の道具もありました。薬用の箱やさじはもちろん、医療用の器具も青銅で作られており、精度も高かったのだとか。
なおこの物々しい見た目の医療器具は『膣鏡』で、長さは31cm、広げると13.5cmになるのだそう。おそらく妊娠中の女性に使ったんだろうという推測はできますが、こんな突起部を体に突っ込まれると考えると男でも冷や汗が出てきます…
ちなみに近くで見ていた2人組のマダムも「あらぁ…」と渋い表情をしていました。
世界史の教科書でポンペイのページに必ず載っている、といっても過言ではないであろう『炭化したパン』は、見たかったものランキング上位の展示品です。長期保存が可能な軍用のパンも含め、多種多様なパンが作られていました。きれいに入っている切れ目は焼く前に入れていたのだそうです。
餅は餅屋、パンはパン屋ということで、紀元79年当時のポンペイには34のパン屋が営業していたことがわかっているのだとか。人口が15,000~20,000人ほどと言われた都市にそんな多くのパン屋があったというのは驚きです。
そのパンが描かれたフレスコ画からはローマ人の食事の光景が読み取れます。
パンの左はおそらく豆のスープ、右はイチジク。質素な食事です。
これもかなり有名な作品『猛犬注意』のモザイク画。割と「CAVE CANEM」という表現はおなじみのようで、番犬のいる邸宅にはしばしば文字とイラストがセットになっていたそうです。
この絵を見る限りではそんな強そうなイヌには見えず、我が家でよく見る「散歩を嫌がるイタリアングレイハウンドの姿」にしか見えないのですが…
しばらく進んだ先にある「悲劇詩人の家」にある『猛犬注意』のモザイク画(イメージ)の方では、しっかりとした鎖につながれたイヌの姿が床に描かれています。こちらはハッキリと鋭利な歯が見えますし、両脚とも太くてちゃんとした「番犬」の雰囲気。
確かにこの絵からは「CAVE CANEM」の文字に説得力があります。
ポンペイ最大の邸宅「ファウヌスの家」から発見された高さ70cmほどのブロンズ像が『踊るファウヌス』です。ファウヌスというのは家の持ち主の名前ではなく、この像のモチーフになった可能性のある家畜や畑の守り神「ファウヌス FAUNUS」から来ています。
家主はサトリウス家というのが仮説として挙げられているのだそう。
ファウヌスと名付けられてはいるものの、現在ではギリシア神話に出てくる豊穣などを司る精霊サテュロスというのが定説になっているようです。踊っているように見える両手は笛を演奏していたものと考えられています。
ただサテュロスはローマに伝わって先述のファウヌスや他の神と混同されていたようなので、「ファウヌス神ではない」と言い切れないのも難しいところです。
生き生きとしたポージングもさることながら、背中の筋肉の躍動感も素晴らしいものがあります。
お尻に生えているのはヤギの尻尾。上の写真もよく見ると頭にヤギの角が見えています。
『アレクサンドロス大王のモザイク』は「ファウヌスの家」のエクセドラ(談話室)の床から発見されたモザイク画で、展示では原寸大のプリントで再現されています。
3.5m×6m弱という巨大なモザイク画には、紀元前330年頃に行われたとされるマケドニア対アケメネス朝ペルシャの戦いが今にも動き出しそうな細かさで描かれています。
写真の中央に近いところ、ひときわ高いところで手を伸ばしているのがアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス3世。槍で刺された兵士を気遣っているのか、それとも助けを請うているのか…
そして上に写っているところよりさらに左側、凜々しい表情で敵を見つめているのがマケドニアの英雄アレクサンドロス大王。巧みな戦術と優れた統率力、そして果敢な戦う姿で兵を魅了し、ヨーロッパから中央アジアまで版図を広げた英雄中の英雄です。
この細かい細かいモザイク画の技法は「オプス・ウェルミクラトゥム」と呼ばれるものだそうで、数ミリの大きさの石をモルタルに埋め込んでいます。おそらく全体では数百万個の石が使われているだろうとのこと。
巨大な邸宅の巨大なモザイク画には、いったい当時の価値にしてどれほどの財産が注ぎ込まれたのでしょうか。
最後にヴェスヴィオ火山の北側に位置する「ソンマ・ヴェスヴィアーナ」と呼ばれる遺跡から発掘された大理石像『ペプロスを着た女性』を紹介して終わりとしましょう。
1931年の発見当初は「初代皇帝アウグストゥスの別荘では?」と考えられたまま埋め戻されたこの遺跡は、2002年から東京大学の調査団によって発掘調査が行われています。
調査によって79年の大噴火ではなく、472年の噴火によって埋没したと言うことがわかっており、つまりアウグストゥスの別荘ではありませんでした。
像のデザインからもポンペイの遺跡で出てくるものよりしばらくあと、ハドリアヌス帝(在位117~138年)の時代に彫られたらしいということがわかっています。手に持っていたものが失われてわからないため、像のモチーフは不明です。
右肩の後ろにおそらく像が彫られた当初にはなかった穴が開けられており、女神ディアナ(ギリシア神話ではアルテミス)へと当時の都合に合わせて「改造」されたものと考えられているとか。
良くも悪くも乱暴というか柔軟というか、ローマ人らしいやり方ではあります。
あっという間に2時間が過ぎてしまいました。最後にグッズコーナーを見て帰ることにします。
やはり狙い目は開催前から話題になっていた『炭化したパン』のクッションです。4,500円とそこそこ値が張りましたが、おそらくあのパンをモチーフにしたクッションなんてポンペイ展がなければ手に入りません!これが手に入っただけでうれしい!
真ん中にあるのは弱々しい方の『猛犬注意』マグネット。散歩を嫌がる我が家のイヌに似ていたので、こちらもついつい買ってしまいました。
いやはや、『特別展「ポンペイ」』は非常に充実していました。次こそはPOMPEIIその地で空気に触れてみたいものです…
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参考資料:
図録『特別展 ポンペイ』