今日はようやく「単騎遠征」です。口うるさい両親がいない解放感!やはり旅行というのはこういう解放感があってこそ。
と意気揚々と非番を迎えたのですが、これから乗る予定の北陸新幹線内は電力設備点検ということで最大1時間近くの遅れが出ているようです…
とりあえず東京駅まで行ってみると、乗車予定の「かがやき509号」の前に出るはずの「あさま607号」は発車時刻がとっくに過ぎているのにまだ姿を現してすらいませんでした。
大幅に遅れて到着したE7系が大慌てで車内清掃を済ませ、27分遅れの「あさま607号」となって東京駅を出て行きました。
どれほど遅れるかと気にしていた「かがやき509号」は素早い折り返し準備のおかげで定刻通り10:24に東京を発車しました。「かがやき」は北陸新幹線の看板列車ゆえ、定時運行の優先度も高いのかもしれません。
大宮駅にはまだE4系で使っていた16号車の乗車位置案内も残っていますし、柱の色も紺と「朱鷺色」のE4系カラーで彩られています。ほとんど同じカラーリングのE2系も引退すると完全に過去の記憶となってしまうのでしょうけども…
高崎で上越新幹線から分岐してしばらく走ると、窓の外は雪景色に変わりました。長野から北陸地方にかけて激しく雪が降った日があり、その雪がまだまだ残っているようです。
「5cm程度じゃ大した積雪じゃない」とタカをくくって革靴で職場から出てきましたが、改めてこの白くなった街並みを見ると雪用の靴を履いてくるべきだったかと不安になります。まぁ今さら不安に思ったところで手遅れですし、滑り止めのしっかりしている合皮の靴なので転んでケガをするようなこともないでしょう。
雪化粧した長野を発車しました。直後に見えてくるのはJR東日本の長野総合車両センターです。リニューアル改造を待つ相模鉄道10000系や廃車されたE217系の姿が車窓から見えます。相鉄の車両の間からは解体待ちの189系の姿も見えますね。
さらに進むと、役目を終えた215系がまだ列車としての姿を保ったまま留め置かれていました。
ライナー列車として少しでも多くの座席を用意する、という独創的かつ意欲的なコンセプトの車両でしたが、その時代が終わったがゆえに真っ先にいらない存在となってしまったのは不運でした。
製造から30年経っているので今さらリニューアルしたところで費用対効果も見込めないでしょうし、使う目的も限られていますから廃車は致し方ないことだと思います。
臨時列車として使うにしても、普通車がJR東日本お得意の硬くて狭いボックスシートでは今の時代ウケが悪いでしょうしね。
太平洋側まで出てくると雪がほとんどなくなりました。これなら革靴で何とでもなりそうです。
12:51、定刻通り終点の金沢に到着しました。東京からの途中停車駅は大宮・長野・富山の3駅だけ、所要時間は2時間29分と驚異的なスピードでした。この列車の8分後に出てくる多停車タイプの「はくたか559号」は金沢に13:38着と50分近い時間差にまで開きます。
なお上越新幹線の越後湯沢で乗り換えてほくほく線経由、という金沢開業前のルートだと東京~金沢間は3時間47分が最短時間となっていました。「かがやき」はそれを1時間20分も縮めたのですから、やはり新幹線の効果は絶大です。
ちょうどお昼の時間です。
金沢と言えばいろいろと食べるものがあることでしょうが、寒いですし石川県発祥のラーメンチェーン「8番らーめん」をいただくことにしましょう。
駅構内にはちょうど8番らーめん金沢駅店がありました。平日にもかかわらず店の外には何人か待っている人がいるほど盛況でしたが、一人客はありがたいことに空いた席から順番に通してもらえます。
新幹線の車内で500mlの発泡酒を飲んでそれなりにお腹がいっぱいなので、麺の量が半分のラーメンに餃子がセットになった「小さな8番セット」(720円)をいただきます。スープは選べますので、あさかぜはオーソドックスな醤油を選択。
小さいといいながらもたっぷりと野菜が入っていてボリュームは充分です。お腹いっぱいになれました。
いっぱいいっぱいになったお腹を抱えてバスで兼六園まで移動してきました。
まもなくやってくる本格的な冬に備え、園内の植物が雪の重さで折れたりしないようにする「雪吊り」がすでに行われていました。毎年11月1日に唐崎松からスタートし、1ヶ月半をかけてツツジのような低木も含めた合計800カ所以上の植物に作業を進めるのだとか。
3月15日頃から撤去を進め、これが終わるといよいよ北陸に少し遅めの春がやって来るというわけです。
www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp
少しだけ時間があるので金沢城の無料エリアを覗いてみます。
兼六園のある側から入るのは石川門。1759年の火災で金沢城のほとんどが焼失してしまい、この石川門も例外ではありませんでした。火災後の再建では実用性を重視して櫓などの再建は取りやめられたものの、この石川門は1788年に再建され現在は国の重要文化財に指定されています。
おそらく観光客が最も使う門ではないかと思いますが、あくまでこちらは裏口。
www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp
門の横にそびえる立派な櫓。敵の接近を見張るのはもちろん、侵入してきたら迎え撃つための建物でもあります。
門も櫓も瓦の色が白く見えますが、これは鉛を使って作られているから。土で造る瓦よりも鉛の板で屋根を葺いた方が軽いしメンテが楽という考え方に基づくもので、雪が多い北陸らしい工夫です。いざというときは溶かして鉄砲の弾として使えるようにするためだったともいわれています。
最初の門をくぐると右に90度折れ曲がって、その先に次の門が待ち構えています。石垣と長屋、そして先ほどの櫓でセキュリティを固めた「枡形(ますがた)」という構造で、最初の門が破られたとしてもここで敵の流れを滞らせて討つという仕組み。
ちなみに左側と正面とで明らかに石垣の積み方が違っています。普通は同じ場所なら同じ石の積み方になるそうですが、1630年代半ば~1800年代初頭にかけて3回の改修が行われたようで、そのときに積み方を時代に合わせたものにしたのでしょう。
合理的なやり方ですが、1800年代初頭の文化年間に書かれた文書に「左右で積み方が違うのはおかしいだろ」的なツッコミがあるそうですから、当時のその手の人からしても美的センスが許さなかったのかもしれません。
2つめの門をくぐった先に広がっているのは三の丸広場です。元々は重臣の住む家などが建てられていたそうですが、規模の拡大に伴ってそれらは城の外へ移動。代わりに番人の詰所が置かれていたとか。
雪吊りされた木々の奥に見えるのが、金沢城の中枢「二の丸」を守る橋爪門。そこから先は有料の観覧エリアとなります。金沢城は1602年に落雷で焼失してからは天守が存在していません。さらに1631年、1759年と2度あった火災のたびに機能の見直しが行われており、最終的に二の丸へ機能が集約されたとのこと。
長くつながった「五十間長屋(ごじっけんながや)」は武器庫などとして使われていました。その先、写真右端に見えるのが「菱櫓」というとても重要な物見櫓です。
一見しただけではわからないのですが、角は80度と100度というわずかに菱形をしている建物で、中の柱まで菱形になっているのだとか。単純に直角にするのではなくわずかに角度を変えて造ることで死角を減らす効果があるのだそうです。すごい知恵!
www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp
河北門は実質的な正門として機能していた門でした。先述の1759年の火災では城の中の建物は多くが消失してしまったそうですが、その中でも真っ先に再建されたとても重要な門です。
ここを抜けていくと、重臣の屋敷があったり、屋敷を城外へ移した後は細工所を設置していた新丸広場や、ハナショウブやヒメスイレンが美しい湿生園に出られます。
本当は有料観覧エリアの二の丸まで入りたかったところですが、乗る予定のバスの時間が迫ってきてしまったのでバス停まで戻って来ました。
石川門の下、兼六園の入口のたもとにある兼六園下バス停がバスの出発地です。
金沢市内には主に2社のバスが運行されており、街外れにある金沢駅から香林坊や兼六園といった中心街へは、地元の北陸鉄道(手前)とJRグループの西日本ジェイアールバス(奥)がしのぎを削ります。
北鉄バスには圧倒的なネットワークと便数、JRバスは交通系ICカードが使える観光客への優しさとそれぞれに強みがありますが、市内を移動するなら現金か独自のICカードしか使えないとはいえやはり北鉄バスの方が便利です。
14:05発の富山ゆき高速バスで金沢をあとにします。兼六園・金沢城まで来たのには予約不要の高速バスに確実に乗れる始発地だからというのが理由ですが、心配はいりませんでした。始発の「兼六園下」からの乗車はあさかぜ含め2名で、ご覧の通り車内はガラガラ。
繁華街の香林坊、武蔵が辻を経由してから金沢駅を通りますが、それでも乗客数は20人程度とかなり余裕があります。往来の多い2都市間を結ぶ高速バスゆえもっと混み合うものだと思っていただけに、だいぶ拍子抜けです…
金沢東ICから北陸自動車道に入り富山県へ。富山市内でいくつかの停留所を経由し、金沢駅からおよそ1時間で終点の富山駅前に到着しました。パラパラと雨模様ですが、幸いにして雪は降っていないので道が凍る心配はなさそうです。
>>つづく<<