帰りの特急「踊り子」までまだ1時間以上あります。何もせず駅で待っているのももったいないので、もう1カ所ぐらい見て回りましょう。
写真の中央奥の方、斜めになっている建物は「下田ロープウェイ」の新下田駅。山の上の展望台に行って下田の港を見下ろしてみることにします。
伊豆急グループに属する下田ロープウェイ。2019年のリニューアル時に伊豆急「ロイヤルエクスプレス」のイメージに合わせた改修が行われました。
内外ともに水戸岡鋭治氏によるデザインであることが一目瞭然です。
40人乗りという割にはずいぶん小ぶりなゴンドラで、20人も乗ればかなり窮屈になるであろう感じ。
3分半で寝姿山の頂上へと上がってきます。寝姿山駅の出入り口の横にはやはり水戸岡鋭治氏がデザインしたレストラン「THE ROYAL HOUSE」がありますが残念ながら休業中。優雅にコーヒーでも1杯やろうかと思ったんですけどね。
せっかく頂上まで上がってきたので公園内を1周してきましょう。
今いるのはロープウェイの駅のそばにある寝姿山展望台。下田の港がきれいに見渡せます。
もう少し上にある黒船展望台へ向かいます。
道中に見えるのは「石割り楠」。ご覧の通り岩をかち割るようにして木が生えており、近くの案内板にはカッコ書きで(活力の楠)と添えられています。
日本各地にこうした強い木は名所としてありますが、見るたびに木の生命力に驚かされます。
黒船展望台に到着しました。先ほどの寝姿山展望台とはまた少し違った角度で港を見渡すことが出来ます。
3方を岬と山に囲まれ、海への出口は1方向だけ。風と防御に優れる天然の良港で、江戸時代から港町として栄えた理由がよく分かります。それだけに鎖国を解いて下田を開港するというのは江戸幕府としてかなり苦渋の決断であったことでしょう。
湾内の右側、城山公園の前には神津島などの伊豆諸島へ向かう神新汽船ののりばがあり、海上保安庁の下田海上保安部もすぐ隣にあります。
小さく見えている白い船は海保庁のはてるま型巡視船「しきね」です。ウォータージェット推進で航行速力30kt=時速約55kmという快足は、領海侵犯に対応している巡視船などへ可能な限り早く応援に駆けつけるためのスペック。元々は中国による領海侵犯が多発している尖閣諸島に投入されたものでしたが、現在は国内各地で運用されています。
暖かすぎるぐらいですが気持ちの良い散歩コースです。並んでいるのは早咲きの桜として有名な河津桜でしょうか、東京のソメイヨシノはまだ開花までさっぱりだというのにここのはもう葉桜になっています。
1849年、イギリスから測量船マリナー号がやってきて浦賀(神奈川県)と下田を測量していきました。ペリーが艦隊を率いて日本に開国要求をする4年前のことです。
測量までされてさすがに丸腰はヤバいとなったのか、幕府は慌てて下田港を一望できるここ寝姿山の頂上に「黒船見張所」を設置して、下田奉行所の役人が日夜ここから外国船を監視していました。この小屋はそれを再現したものです。
見張所のすぐそばにはいかにもな雰囲気で大小の砲が2門据え付けられていますが、これは当時のアメリカ船が搭載していた大砲なので寝姿山にあったものではありません。
そもそも寝姿山からじゃ沖合の外国船までは砲撃が届かないはずなので、怪しい大きい船が来ていないかどうか文字通り見張るだけだったのでしょう。
湾の西側からはまもなくヨットレースが始まるようです。
帆船には航海の基礎が全て詰まっている、なんて話を聞いたことがありますが、あさかぜには波にたたかれても力尽くで船を進める体力や精神力なんてとてもありません。
残念ながらレースのスタートまでを見届けるほどの時間は残されていませんでした。ロープウェイで寝姿山から下りて、すぐ隣にある東急ストアで帰りの電車内で飲むお酒などを買っておきます。
ちなみに寝姿山という名前の由来は「山の稜線の形が横たわっている女性の形に見えるから」だそう。往路のロープウェイの中で解説があり、それを聞いているとなんとなく「あぁなるほど、あれを胸の膨らみだと想像したんだ」っていうのがわかってくる気がします。名付けた人はずいぶん想像力が豊かです。
帰りも185系の特急「踊り子」です。
帰りの200番台は元々北関東方面の特急用車両として投入されたものでした。横川~軽井沢間の碓氷峠を越えるための装備も用意されましたが、それを使う機会は果たしてどれほどあったのでしょうか。
車内は往路で乗った0番台とほぼ一緒。背面テーブルの変色具合に時間の流れを感じさせます。
偶然にも同じ列車に大学の後輩が乗ることがわかったのですが、まさか同じ号車に乗り合わせるとは思ってもみませんでした。
後輩と挨拶を済ませ、お互いの席から缶を掲げるだけで声のない乾杯を済ませて帰りの列車旅の始まりです。
乗客数は朝の下りと大して変わらず、せいぜい海の眺められる進行方向右側の座席が全部埋まった程度といったところ。山側はいくらも座っていません。
東ハト「オールレーズン」の差し入れと引き換えに後輩から金目鯛せんべいをいただきました。こんなことならあさかぜもご当地もののお菓子を用意しておけば良かったです…
お酒を飲んで食べるものを食べたらあとは眠ってしまうだけ。寝台列車の中でゆっくり寝てきたとはいえ、一日中歩き回っていればさすがに疲れてしまいます。
気がつけばもう茅ヶ崎付近を走っているようです。茅ヶ崎の留置線には215系が休んでいました。
ここ数年定期列車といえば朝夕の「湘南ライナー」ぐらいしか運用を持っていませんが、3日後のダイヤ改正でそれもE257系の特急「湘南」へと置き換えられてしまいます。古巣のライナー列車を追い出されたらいよいよ215系の役目もおしまいで、215系も廃車が濃厚とされています。
1992年にデビューしたので30年選手ではありますが、表舞台に立つことはほとんどなく、車両数も10両編成4本と少なかったこともあってなかなか不遇の車両でした。185系のように最後までスポットライトが当たることもなくひっそりと引退していくのがまた儚げです。
17時半頃、終点の東京に到着しました。これで185系に乗ることももうないでしょう。
静かな車内とは対照的にホームは185系の姿を収めようとするマニアであふれかえっていました。よくやるもんだ…
到着ホームは撮影者でいっぱいなので、隣のホームから編成の全景を写してみましょうか。7・8番線ホームは撮影者もまばらで空いており、なぜみんな9番線に集結しているのかはよくわかりません。
185系は1990年代半ばのリニューアルで方面ごとにカラーリングを変えていました。
「踊り子」などに使う東海道線向けの車両は緑とオレンジのブロックパターンに、「草津」「水上」「あかぎ」といった北関東方面の車両もグレー・赤・黄色のブロックパターンで「EXPRESS 185」というロゴ入り。どちらもおしゃれな出で立ちでした。
2012年に一部の車両がデビュー当初の緑色の斜めストライプに戻って「おぉリバリバルカラーか、見に行きたいな」なんて思っていたら、いつの間にか全部の車両が写真の緑ストライプへと変更されて現在に至ります。
せっかくなら少しぐらい窓下に緑帯1本の200番台を残してくれて良かったんじゃないか、と思わなくもありませんが…
すごい数の撮影者です…
鉄道に限らず、だいたいいなくなりそうな時期なんてわかるのですからもっと早く記録しておけばいいのにといつも思います。こんなたくさんの人が一カ所に集まって満足いく写真が撮れるのでしょうか。不思議です。
まぁ満足いかないから罵声大会が起きるのでしょうけれども。楽しむことの出来ない「趣味」とは何なのか、撮っている自分に酔って駅員にさえ怒号を飛ばすのは「趣味」といえるのか、ここ数年の撮り鉄の姿を見ていると疑問でなりません。
「そうしたことをするのは一部だ」と主張する人もいますし、実際目に余るような人たちはそんなに多くはありません。ただ自浄作用も失われて気が狂った者の蛮行ばかりが目立つようになってしまったら、もはや一部であろうが何だろうが関係ないのです。あさかぜだって人のことをいえた義理ではないんですけどね。
さて、後輩ともお別れして帰りましょう。国内に残る貴重な国鉄型特急電車に乗れて充実した2日間でした。