市内の友人宅で一晩お世話になり、函館駅まで送ってもらいました。今日の夕方まで友人宅でやっかいになるつもりですが、昼間は買い物やら何やらで忙しそうだったので、邪魔にならないようあさかぜは一人で市内をブラブラすることにしました。
駅前にそびえる立派なビルは北洋銀行の函館支店。実はこの建物は拓銀こと「北海道拓殖銀行」の函館支店でもありました。拓銀はバブル期のめちゃくちゃな経営方針や融資が響き、1998年に日本の都市銀行で唯一経営破綻するという汚名を残しました。業務は当時北海道で3番目の経営規模だった北洋銀行が引き継ぎ、現在に至っています。
黒歴史を消し去りたいのか、ちょっと見たところでは拓銀だった頃の痕跡は全く残っていません。「定礎」と書かれた礎石すら見つからず、外から見る分には北洋銀行でしかありませんでした。
いやらしい歴史の詮索はやめて観光に出かけることにします。やっぱり函館と言えば五稜郭は外せないでしょう。市電の五稜郭公園前という停留所から10分ほど歩くと国の特別史跡となっている五稜郭跡に到達します。
目の前には五稜郭タワーという五稜郭を見下ろすことの出来る観光施設がありますが、チラリと中を見ると長蛇の列…
タワーのはす向かいには函館のご当地ハンバーガー「ラッキーピエロ」の五稜郭公園前店もありますが、お昼が近いということでこちらも長蛇の列…
タワーもラッピもとりあえず後回しにして、五稜郭の本体へ足を進めましょう。今にも雨が降り出しそうな雰囲気ですし、屋外の活動を先に済ませた方が良さそうです。
それでは五稜郭公園に入っていってみましょう。☆の中央下部分が正門のようなポジションで、五稜郭タワーにも最も近い入口。
「五稜郭跡」の石碑のすぐ脇にある「一の橋」を渡ります。公園自体は無料なので気軽に入れる散歩コースにもなっているようです。
一の橋を渡ってすぐ右側の小高い場所は「半月堡(はんげつほ)」。五稜郭の航空写真や地図を見てみると☆の形の下に▽の飛び出しがありますが、それが半月堡です。門を出入りする人や馬が外から見えないようにするための目隠しだそうで、登ってみると五稜郭の内外を見渡せるぐらいの高台になっています。
振り返ると見えるのは堀を越えて五稜郭の中に入っていく「二の橋」。
堀の幅は最も広い場所でおよそ30mにもなり、深さも4~5mあります。貸しボートでのんきに漕いで回れるぐらい広い池です。
観光地となった現代では、雪が降って観光どころではない冬場になると堀の水の大部分を排水し、春先に川の水を引き入れることで水質悪化を防止しているのだそうです。
目隠しの土塁を回り込んでいくと「箱館奉行所」の建物が見えてきました。
五稜郭は江戸幕府が防備の拠点として造った城郭ですが、その中心にあったのはこの箱館奉行所でした。1802年の開港に伴って外国との窓口が必要になった函館ですが、設置当初の奉行所は函館山の麓にある見晴らしの良いところにあったそうです。
しかし函館の外交や蝦夷地の防備など政治的・軍事的な要所が外国の船から丸見えなのはよろしくありませんし、砲撃なんてされようものならひとたまりもありません。
だったらもう少し内陸側の砲撃が届かない安全な場所に奉行所を移転しよう、というわけで考えられたのが五稜郭というわけです。
幕府は新たな城郭をフランスから学んだ西洋式で造ることにし、3年間の工事の末1860年に土木工事が完成。1862年から新たな奉行所の建設工事も着工し、2年で完成します。
ところが1867年には徳川慶喜が大政奉還をしたことで幕府政治は終了、幕府支持の残党が明治新政府との対立で戊辰戦争へと発展したのは誰もが習った日本史の流れです。すでに明治政府に移管されていた五稜郭と元奉行所を1868年10月に旧幕府軍が占拠して抵抗します。
1869年5月にいよいよ明治政府は総攻撃を命じ、技術の進歩で飛距離の伸びた砲弾がやぐらに命中、旧幕府軍は降伏し五稜郭は再び明治政府の手へと戻ります。しかしその後は有効利用されることなく、奉行所だった建物は1871年に解体されて、建物の部材は民間に払い下げられてしまいました。五稜郭への移転からたったの7年という短さです…
当時の部屋割りの図面と海外で見つかった写真を基に、2010年に復元されたのがこの箱館奉行所の建物です。建物の面積は当時の1/3ほどですが、象徴的な正面玄関や砲撃された「太鼓櫓(たいこやぐら)」などが忠実に再現されています。
では入館料の500円を払って中に入ってみましょう。
入ってすぐに到達するのは「再現ゾーン」。江戸時代に奉行が接見に使った場所で、4つの部屋のふすまを開け放すと72畳の大広間になります。もちろん位の高い人でなければ奉行に近い奥の方へと進むことはできません。
あさかぜが立っているのは最も手前の四之間。奥に見学中の親子の姿が見えますが、あの辺りが奉行が座っていた壹之間です。実際に立ってみると、写真で見えている以上に奥行きがあります。
四之間の手前にはトイレもあります。間違って本当に用を足されちゃ困るので立ち入れないようになっていますが。
現代の和式トイレでは金隠しに向かってしゃがみますが、女性の十二単が便器の中に突入しないための「きぬかけ」が金隠しの語源の一つとされており、今で言う後ろ向きに座るのが「きぬかけ」の正しい使い方だといいます。
いつから「きんかくし」と変わって前向きに座るようになったのかはハッキリしないようですが、「トイレ博物館」というウェブサイトを見ると明治期には今のような姿になりつつあるようですね。
壁を隔てて隣には手を洗ったであろう鉢が置かれていました。
シモの話はそこそこにして奥へと進んでいきます。
恐れ多くも壹之間(いちのま)へとズカズカと上がり込んでみましょう。
立派な床の間と掛け軸がある壹之間。ここを背にして奉行が座り、役人や領事などに接見したのでしょう。
左側の違い棚は立派なケヤキの1枚板に黒漆を塗ったもの。畳は最高級品とされる備後表(びんごおもて)が使われ、格式の高さがうかがえます。
おそらくふすまも美しい絵柄のものが使われていたであろうことが想像できますが、そこまでは判別しなかったのか真っ白です。ふすまは記録が残らないようで、日本各地で「絵柄は不明」で復元できず真っ白なんてことがよくありますよね。
壹之間の奥は「武器置所」。文字通り刀や弓、鉄砲などの置き場です。
そのさらに奥にあるのが「表座敷」で奉行の執務室として使われていた場所です。格式高そうな床の間と掛け軸があります。
裏側は護衛兵にあたる近習が詰めていた場所があるようですが、そこは見学できませんでした。
当時の建物が再現されている「再現ゾーン」はここまで。元の建物ではこの奥に奉行の邸宅が続いていたそうですが、法律に準拠させるには規模が大きくなりすぎるのかそこまでは再現されていません。復元箇所だけでも1,000平方メートルの広さになるのですからかなりの規模です。
降った雨を排水したり外光を取り込むのに使われた中庭。家庭菜園や植物の観賞に使われたわけではないので無機質な空間です。なんだかそういうところは今も昔もお役所っぽいですね。
45畳もあるこの広い部屋は「御役所調役(おやくしょしらべやく)」という役職の人が執務室として使っていた場所。
江戸時代にさっぱり詳しくないので肩書きを言われても想像ができないし、調べてもよくわからなかったのですが、お役所の実務を第一線で行っていた立場なんだろうなという予想はつきます。今も「調査役」とかいう肩書きがありますしね。
この部屋は「歴史発見ゾーン」としてパネル展示のスペースになっています。五稜郭や箱館奉行所の歴史、築造に至った背景、また使われていた調度品などが解説されておりとても勉強になります。
復元された箱館奉行所の建物が元々のどこの部分に当たるかというのも詳しく触れられているので、あとで外へ出てから眺めてみると往時の様子を想像できるかもしれません。
天井は一部がガラス張りにされて天井裏の構造が見えるようになっていました。
上に書いたとおりここは45畳もある広大な部屋で、横幅は9mもあります。屋根は瓦葺きでかなりの重さがありますから、柱を置かずに支えるのはなかなか大変です。
そこで屋根の重さに耐えらるよう、天井裏には直径0.6m、長さ10mという太い松の柱が2本通されています。パネルのライトが反射してしまって見づらいですがなかなかの迫力です。
奉行所の建物の中で最も背の高い「太鼓櫓」ももちろん復元されていますが、残念ながら昇降が急すぎるようで一般の人は立ち入ることができません。いくつもの階段、というか梯子を登って一番上に到達できるようです。太鼓櫓の名前の通りやぐらの上には太鼓が置かれ、時間を告げたりしていたそうです。
途中にあった「映像シアター」でも触れられていましたが、箱館奉行所は復元にあたって当時の建設手法や材料まで可能な限り再現しています。屋根瓦、土壁、木材はもちろん、形を合わせた材木を組むのも「継手」が採用されました。ですからほとんど釘が使われていませんし、金属と違ってすぐに腐蝕しないので建物が丈夫で長持ちします。日本の伝統的な建築技術です。
継手の種類や組み方も途中の展示にありましたので、興味のある方はじっくりと観察してみてください。
ちょっと暇つぶしのつもりで入ってみましたが、興味を引かれる展示ばかりで熱中してしまいました。歴史巡りというのは楽しいものです。
なおこれも映像シアターからの受け売りですが、瓦の色のバラバラ感もあえて再現したものだそうです。奉行所の建設当時と違い、現代の技術では瓦の色はムラなくそろえて焼くことができますが、それでは当時の雰囲気を再現することができません。
そこでわざわざ4種類の近い色の瓦をあえて作り、ランダムに並べることで当時の雰囲気を再現したのです。何気なく見ている屋根の部分までこだわり抜いています。
建物こそありませんが、外にはどういった形で部屋が置かれていたかなどが示されています。復元部分だけでもかなり広大でしたが、改めて見てみるととんでもない規模です。
当時の北海道全てを箱館奉行所が管理していたので、奉行は途中で2人から3人に増やされています。奉行の家族もここに一緒に住んでいたそうですし、もちろん働く人や世話係などもいたでしょうから、これぐらいの規模は必要なのでしょうね。
奉行所の隣には発掘作業で発見された仮牢跡(かりろうあと。一時的な拘置所)、公事人腰掛跡(くじにんこしかけあと。裁判や訴訟を待つ人の控え所)、板蔵(いたくら。文書などの保管庫)の位置も示されています。
なお五稜郭は国の特別史跡ですし、奉行所はそのまま遺構であるため土を掘り返して建物を建築することができません。それゆえ箱館奉行所は復元にあたって掘り返すことなくコンクリートの基礎を上に置き、その上に建物を復元しています。
ここは北の端。この先は市街地なので特に観光するようなものはありません。
右端に見えている橋を渡ってすぐのところに「男爵薯(だんしゃくいも)記念碑」という石碑があるそうです。1907年頃に川田龍吉という男爵が海外から取り寄せたジャガイモが元で、本来の品種は「Irish Cobbler アイリッシュ・コブラー」というのだそう。取り寄せたときに正式な品種がわからなかったので、「川田男爵が広めた馬鈴薯(ばれいしょ=ジャガイモ)だから男爵いもでいい」という話になったそう。
早く育ち、環境への適応性も高く、収穫量が多くて長持ちする、という食糧事情の向上にはもってこいの品種です。功績をたたえて1947年に碑が建てられました。
雨が降ってきてしまいました。そろそろ五稜郭タワーにも行っておきましょう。お昼時でみんなどこかに行っていることでしょうし。
来た道を戻って二の橋付近まで戻ってきました。二の橋を公園側に向かって渡ると藤棚があります。この時期なのでなにもありませんが、春頃には美しい紫色の花を咲かせることでしょう。
奥に見えるのは「見隠し塁」で、城内にある箱館奉行所が見えないようにするための石壁です。外に出入りできる3カ所には全てこの壁が築かれています。
【後編へ続く】