あさかぜみずほの趣味活動記録簿

旅行記や主に飛行機の写真をひたすら載せ続ける、趣味のブログです。たまに日記らしき投稿もあり…?

どこかで働く駅員がひたすら旅行記や写真(主に飛行機)をひたすら載せ続けるブログです

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10年

東日本大震災から10年の月日が過ぎました。
毎年この時期になるとテレビに限らず様々なメディアが震災の悲惨さを取り上げますが、今年は10年という一つの区切りということもあってか、なおさら取り上げ方が大きい気もします。

阪神淡路大震災の時は幼稚園児でしたし、日本に住んでいなかったこともあって全く記憶がありません。しかし東日本大震災は大学2年生の春休みだったので鮮明に覚えています。
強い揺れで慌ててテレビをつけると、太平洋側ほぼすべてに出ていた津波警報と注意報。とんでもないことになっていることはすぐわかりました。

途中だった皿洗いを放り出してテレビに釘付けになっていると、現実とは思えないような光景が中継されるようになります。

津波です。

宮城県仙台市名取市の海沿いだったはずですが、避難に向かう車列を海水が飲み込んでいく様子が映し出されたのは衝撃的でした。あとで思えば人の命が奪われていく光景をリアルタイムで見せられていたわけですが、あの時は言葉を失ったままテレビを食い入るように見ているだけでした。

その後も翌日以降もただひたすらこの世のものとは思えない映像を、テレビでもTwitterでも延々と目にしていました。

津波に流される函館港のコンテナ。
炎で真っ赤に染まる気仙沼の港。
変わり果てた旭市の景色。
整然としていたはずの浦安の街並み。
工場火災で毒の雨が降るというチェーンメール

何もかもがアメリカのパニック映画のワンシーンのようで、とても現実の光景とは思えませんでしたし思いたくもありませんでした。

津波もない、液状化もない、家も傷ついていない、そんな安全圏で傍観していたあさかぜですら気が滅入るような思いをしていたのです。被害に遭われた方の悲しみ、不安、苦労などなどはとても自分の想像の及ぶ範囲ではありません。
当時を思い返して「自分が○○をできていたら」「マニュアル通りの訓練をしていなければ」「××をしておけば」と自責の念に駆られている方々のドキュメンタリーを見ていると胸を締め付けられる思いがします。生きていることが自分を責める理由になる、なんて考えたこともありませんでした。我々が勝手に節目だと思っている10年は、あの場にいた人たちからすれば節目でも何でも無い、ずっと続いている現実なんですね。

逆に言えば安全圏にいた人たちは10年という「節目」を機に、あの当時を振り返って様々な事を考えていかねばならないのでしょう。
近い規模の災害があったときいかに防災・減災ができるか、何をやっておかねばならないか、そのときになったら何をしなければならないか、真っ先に守らなければならないのは何か。
2011年3月11日の経験と教訓をむげにしてはなりません。

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