鉄道を撮影する愛好家、いわゆる「撮り鉄」の蛮行がニュースやSNSをしばしば騒がせるようになりました。
ホームでは駅員の言うことに従わず、誰かれ構わず暴言を吐き散らす。
線路際に行けば通行人に罵声を浴びせ、邪魔だと感じたものは線路の中に入ってまでどかす。
非難をしようものなら、「どこにその証拠がある!」と気が狂ったように噛み付く。
そんな姿が取り上げられるようになって、「まともな行為だ」なんて思っているのは当の本人たちぐらいでしょう。少しでも良識のある人間であるならおかしいと思って当然なのですから。
先日、Twitterを見ていたら
「撮り鉄の間でちゃんと注意し合って、行動を直していかなきゃいけないと思う」
という、とある漫画家のツイートがありました。
まさにその通りで、「同業者」であるからこそ説得力があるとも言えます。
ですが、撮り鉄の端くれだった私から見て、もはや撮り鉄同士での「自浄能力」は完全に失われているように見えて仕方ありません。
「撮り鉄」を囲む現状について、個人的な推察をしていきたいと思います。
宗教でも組織でもそうですが、「過激派・急進派」と「穏健派」に分かれてしまうと正直なところ収拾がつきません。Islamic Stateやオウム真理教のように、母体を置き去りにして暴走し始めると止めようがないのです。
ニュースやSNSを騒がせている撮り鉄は、分類するならば「過激派」になるでしょう。
自分の撮りたいもののために気に入らないすべてを排除し、それを正しいと信じ込む。「宗教」の異なる一般人の言うことになんて聞く耳を持ちません。一般人の発言なんてただの雑音であり、宗教が違うから弾圧して視界から排除しなきゃならない存在なのです。しかも彼らは一人では行動しません。必ず「群れ」で行動しますから、気が大きくなりなおさら行動に歯止めが利かなくなっています。
そして過激派と穏健派に分かれた集団は、過激派に吸収されます。戦時中の陸軍と海軍のように。もしくは、カトリックとプロテスタントなどのように分離し、別のものとして進んでいきます。
おそらく現在の「撮り鉄」は後者で、特に穏健派の人々は過激な行動をする連中には触れたくありません。困ったことに過激派に位置する集団は、同じ撮り鉄でも気にくわなければ排除しようとしますからなおさらです。過激派からすれば、「目の前にある邪魔なものをどけなければいい写真にはならない。その程度で妥協している連中は下等だから、撃退してかまわない」という考えなのでしょう。そして一人でいることも多い穏健派の人々は、集団で行われる蛮行に太刀打ちできることもなく追い出されてしまいます。
結果として、過激派に相当する集団は静かに撮りたい人たちに刃を向けるようになり、被害を受けたくない穏健派は距離を置くようになります。過激派からしてみれば足かせが減り、なおさらやりたい放題やるようになります。ゆえに穏健派はますます関わろうとせず距離を置くようになります。そういった循環が続いて、いまのIslamic Stateさながらの常識も法律も通用しない無法者の集団ができたと私は感じています。
もはや、IS同様に止められないのです。戻れないところまで来てしまっている、趣味としては末期の状態だと感じています。
一般の人からすれば、鉄道車両にカメラを向ければみんな「撮り鉄」です。残念ながら今の世の中では、どんなに人の邪魔にならずマナーを守って撮影をしていたとしても、線路に乱入して一般人に暴言を吐く集団の端くれと思われてしまうのです。
私の友人の中には、特に過激派が踏み込めないような場所を撮影地として開拓しているような人もいます。過激派は線路の周辺に集まるのが好きなので、そこからはるかに離れた高台の上から見下ろすような場所を見つけるのです。そうやって静かに常識的な、本来あるべき「趣味」としてたしなんでいるのです。
私は結局「撮り鉄」という元いた場所をドロップアウトしました。
新しい撮影地を開拓できるだけの知恵も努力も体力もありませんでしたし、以前からの撮影ポイントで過激派にビクビクしながら撮るなんて、「趣味」としてやることではありませんから。
元の「混み合っていてもマナーの守られた撮影地」へと戻ってくれることを願ってやみませんが、もうここまで来たら無理なのでしょうね。悲しいことですが、私に戦うだけの気力も体力もないので、永遠にしっぽを巻いて逃げることしかできません。